東洋医学における診断

 以前のブログで東洋医学における診断で「脈診」のことを書きましたが、今回はそれによる実際の臨床の話しです。

脈診は、おそらく2~3世紀頃の古代中国の医学書『難経(なんぎょう)』の六十九難の法則によってツボ(経穴)を選ぶやり方です。

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脈診の部位

 上の写真のように橈骨動脈の部位(寸、関、尺)の左右の脈各3点から脈状、脈差によりどの経絡、経穴かを判断します。六部定位(りくぶじょうい)脈診と云います。

 

実際の症状で例を挙げますと、中高年の女性に共通して多い疾患に冷え、便秘、不眠などがあります。

 冷え性は殆どが女性ですが、原因は、大半が瘀血か血虚に関係しています。女性は月経や出産の関係で瘀血や血虚になりやすいのです。 中高年の女性の瘀血による冷えは、肺虚肝実証が多いですが、脈診で肺虚を確認します。

左    右

◎  肺

肝      〇  脾

腎          心包

肺虚の脈の形。◎:脈強 〇の大きさが脈の強さを表わし、肺、脾の虚があります。

瘀血ができると内に血が停滞しており、外の気血の循環が悪くそのために冷えるのですが、上半身は温かく、下半身が冷える、まさに上実下虚の状態です。

 肺虚の本治法で取る経穴は、太淵、太白です。太淵は、手の太陰肺経の原穴で、太白は、足の太陰脾経の原穴です。

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 太淵の位置は、親指の付け根あたりで、手関節前面横紋、橈側端陥凹部、橈骨動脈拍動部で、触れると軽く脈打っています。

 太白の位置は、足の親指関節の後、内側陥凹部に取ります。

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まずはこの2経穴を補います。

 そして標治法は、三陰交、足三里、腹部の胃経の天枢、そして関元、石門、背部の腎兪、関元兪を取ります。三陰交、足三里は灸頭鍼がよく効きます。

 

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三陰交

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足三里

 次に便秘の病理ですが、陰虚によるものと瘀血による便秘があります。陰虚によるものは、津液が虚したために発生した熱が腸に波及して起こるものです。これには、肝虚と腎虚脾虚の各陰虚熱証があります。

 瘀血によるものは、血に熱が加わり、同時に津液が不足すると発生します。ですから瘀血があると固い便か便秘になり易い。証として脾虚あるいは肺虚の肝実です。

治療経穴としては脾虚の本治法の場合、脾経の大都と心包経の原穴の大陵を補います。

左         右

心      肺

      〇    脾

腎       心包

脾虚の脈の形。◎:脈強  〇の大きさが脈の強さを表わします。

 そして、標治法の治療経穴では、膀胱系の承筋、承山、背部の胃兪、脾兪そして腹部の中脘、肓兪に取ります。

このように、三陰交、足三里に灸頭鍼そして腹部と背部の仙骨部あたりに棒灸を施術するのは共通の有効な治療法です。

 

 東洋医学の脈診による診断には、基本的にこのような経絡治療を行っています。

                        おわり

花の名前

 朝早くに柴犬の散歩に行っていますが、道々に野草、花壇などの花が見られます。この花の名前は何かなといつも思っていましたが、良いアプリがありますね。

 

 アップルストアで幾つかありますが、「ハナノナ」というのをダウンロードしました。

庭の花で試してみます。

名前が出てこなかった花も分かりました。

 Iphoneを花にかざすと「カルビナ」と出てきます。思い出しました、正確です。「シャクナゲ」、「シラン」も正確に出てきます。

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「スミレ」は、寒くても平気な丈夫な花です。

 

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 東京は雨の日が続き梅雨も近いようですが、アジサイ(紫陽花)の季節となりました。「セイヨウアジサイ」です。アジサイ(在来アジサイ)との区別が難しいようです。

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「ソケイ」ですが、ジャスミンの仲間です。

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 どんどんツルを伸ばして増えていく花です。なるほど名前が「ツルニチニチソウ」です。

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道端のよく見る花たちです。

ドクダミ」です。しぶとく根をはってどこでも生き残ります。

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ナガミヒナゲシ」はケシ科の花で、道理でケシの花によく似ています。

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マツヨイグサ」です。月見草と思っていましたが。

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オオキンケイギク」ですが、北米原産の多年草で、今頃から夏に黄色のコスモスに似た花を咲かせます。よく生育し在来の野草を駆逐するため、特定外来生物に指定されています。何となく可哀そうとも云えます。

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そして、よく道端に植えられている花たちです。

「フィッシュゼラニウム」は、花が長持ちし華やかです。

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「チェリーセイジ」は、初夏から秋まで長く咲く多年草です。

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デルフィニウム」は、長い紫の花穂が鮮やかです。

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「シャスタデイジー」です。この花はマーガレットに似ていますね。

 

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 これは本当に便利なスマホのアプリですね。植物は逃げませんから、撮影が用意で名前が直ぐに分かるということです。ただ1発で名前が出てくるとは限りません。

 

 虫の名前のアプリもあるようで、夏になったら昆虫が多く現われますので、そのうち調べてみます。

                             おわり

東京国立博物館と聖林寺十一面観音

 各地の博物館は、コロナ禍の運営に苦慮されていると思いますが、東京国立博物館も現在閉館しています。緊急事態宣言が延長され東京都の要請を受けて、当面は臨時休館のようです。

開催中の特別展「国宝鳥獣戯画のすべて」も中断し、延長とはならないようです。

 しかし、その後6月の特別展からは、重量級の展示が目白押しです。

まず、特別展「国宝聖林寺十一面観音 三輪山信仰のみほとけ」があります。

期間は以前の告知より1週間程延期で、6/22(火)~9/12(日)です。

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聖林寺十一面観音 三輪山信仰のみほとけ」ポスター


 そのすぐ後に、聖徳太子1400年遠忌記念の特別展「聖徳太子法隆寺」が始まります。奈良国立博物館のものがそっくり東京入りするのかと思います。

期間は、7/13(火)~9/5(日)と短めです。

 ということは、聖林寺十一面観音と聖徳太子の両特別展は、場所も本館、平成館と違っているので7/13以降は、両方の展示を観にいけるということです。

その頃のコロナの状況はどうなっているか分かりませんが、これは観に行きたいと思います。

 その後に、伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄天台宗のすべて」が待っています。

期間は、10/12(火)~11/21(日)ですが、この頃には、うまくいけばコロナもやや収まっている頃だと思います。

  さて、最初の聖林寺十一面観音について少し調べてみますと、明治政府の神仏分離令と深く関わっていたことが分かります。

聖林寺十一面観音立像は、元々大神(おおみわ)神社の神宮寺「大御輪寺(だいごりんじ)」の本尊で秘仏としてお祀りされていました。

 神宮寺とは、日本独特の神仏習合思想に基づき、仏教によって神様を救うために神域に建てられた寺院です。

奈良県桜井市大神神社は、日本最古の神社のひとつで三輪山そのものがご神体(神体山)であるので、神を祀る本殿はありません。国の重要文化財の拝殿は、寛文4年(1664年)、4代将軍徳川家綱によって再建されています。

 大神神社には、かつて大御輪寺、平等寺、浄願寺という三つの神宮寺がありましたが、そのうちの大御輪寺における秘仏の本尊が十一面観音立像です。

慶応4年(1868)、神仏分離令による廃仏毀釈を逃れるため、住職大心上人によって聖林寺に移されて安置されました。

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「大御輪寺からの仏像等預かり覚書」聖林寺所蔵

 当時の大御輪寺は仏様が出て行かれた後に、大田田根子命が残っているということで、神社ということになり建物も破却されずに本堂もそのまま残り、現在、若宮社と呼ばれています。

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若宮社・大直禰子(おおたたねこ)神社 (桜井市 三輪)

 明治政府の神仏分離令神仏判然令)が、それまで千年もの長き間、神仏習合と云う独特の調和をもたらしていたものが、それにより廃仏毀釈という極めて扇動的な行為に発展しました。

地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わったとされていますが、 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われたのは残念です。

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神仏判然令」を「太政類典」という資料に採録したもの

 明治初年から新政府により宝物調査が始まりますが、明治19年(1886)、アメリカの東洋美術史家、アーネスト・フェノロサが加わり、岡倉天心などによって奈良の寺々の宝物調査が行われます。そして、十一面観音立像は、秘仏の禁が解かれました。

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アーネスト・フェノロサ 米国の東洋美術史家、哲学者

 聖林寺の十一面観 音立像は、天平時代の彫刻を代表する美しい木心乾漆像です。フェノロサ岡倉天心たちによってもその美しさを絶賛されており、フェノロサ明治21年にも訪れ厨子を寄付しています。

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聖林寺の十一面観 音立像

 8世紀後半の制作ですが、秘仏であったせいか破損、欠損が驚くほど少なく大事に扱われていたことが伺えます。

肩幅広く腰高で、すらりとした豊麗な姿、しなやかな指先で、女性的な優美さと男性的な威厳があり圧倒的な存在感の美しい仏像です。

 聖林寺のHPによりますと十一面観音像は、昭和34年(1959)に建立した、日本初の鉄筋コンクリート造りの観音堂に祀られているようです。

いつか訪れたいと思いますが、まずはトーハクが楽しみです。

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聖林寺観音堂の十一面観音像

                               おわり  

奈良大博物館実習の予定

 先日、奈良大から博物館実習(二)の受講についての連絡がありました。6月実施予定の実習希望の方が47名と多かったようです。前年度のコロナ禍で受講辞退した方が加わったためで、受講人数を制限するということでした。

 従って、わたしの場合は、今秋(10~12月)に受講とのことで、受講か辞退かの確認票を提出して下さいとのことです。

実習は、大阪府大東市歴史民俗資料館で行われますが、6月の実習は、現在の大阪のコロナ禍では無理だと思っていましたので、一応、今秋受講することで提出しました。

 

 今後、秋までに日本はどうなっているのでしょう。コロナ禍でのワクチン接種、そして夏に五輪、続く解散総選挙と全く予測不能です。

現在の関西圏の状況は、報道で知る限り医療崩壊と云われてもおかしくない悲惨な状況のようです。特に大阪の100万人当たりの新規死亡者数がインドを上回っているとの報道には驚きです。 

 これが首都圏、そして全国的な様相を呈してくる兆しが見られ、恐ろしい気がします。国、自治体のトップリーダーの判断に左右されますが、五輪実行中心の考え方で全く信頼出来ないのが残念です。

 

 とは云っても今は、コロナ対策をしっかりして、やれることをやるしかないということだと思います。

 博物館実習(二)の受講には、指定された「学芸員に関する講演」動画をYouTubeで見て感想レポートの提出が条件ということなので動画を拝見して提出しました。

科目試験も在宅試験のようです。残りの科目試験3科目(博物館展示論、教育論、情報・メディア論)の準備ということになるでしょうが、なかなか気持ちが乗って来ません。

 

 話は替わってスクーリングのことですが、わたしは卒業したので関係ないのですが、ハンドブックなどと共にスクーリングガイドなど一括送付されてきました。コロナ禍のスクーリングの内容を見てみました。

 全体的にやはり現地踏査が少なくなっているのはコロナ禍では止むを得ないかもしれません。

全てスクーリングを受講した者として、記憶に残ったスクーリングを挙げてみます。

 まずは、3日間現地踏査が殆どだった考古学特殊講義です。唐招提寺東大寺西大寺興福寺そして明日香地方の飛鳥寺、酒船遺跡、石舞台古墳高松塚古墳など多くを巡りました。

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酒船石遺跡の亀形石造物

 暑い夏の日、先生の名前は失念しまったのですが、時間外に東大寺の北西の端、転害門まで行って説明戴いたのは、後から分かりましたが貴重でした。

また、山崎隆之先生の「文化財修復学」における螺髪の製作実習、今津節生教授の「文化財学演習Ⅲ」の文化財の健康診断も記憶に残ります。

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文化財修復学」講義で使用した仏像


「奈良文化論」は先生が替わっているようですが、安養寺、中将姫伝説徳融寺、元興寺、頭塔、会津八一歌碑など「ならまち」を巡りました。

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奈良公園 会津八一歌碑


 どのスクーリングか忘れましたが、唐古・鍵遺跡、纏向遺跡箸墓古墳、ホケノ山古墳を巡ったのも思い出されます。

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箸墓古墳

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ホケノ山古墳

 
 最後に上野先生の「神話伝承論」です。奈良大学を退官され母校の国学院大教授になられたのですが、引き続き担当されるようです。奈良愛が強いですね。

残念ながら平城宮行きは無いようで、朱雀門から元明天皇の平城遷都の詔を読み上げる、これはぜひやって欲しいです。

 上野先生は、読売新聞にはたびたび登場します。先日はエッセイストの矢部華恵さんとの万葉集などの対談が載っていました。

 その中で上野先生は、31歳で奈良大の専任講師になるまで、親から仕送りをもらっていたとの事が書かれていたのですが、飾らない気さくな方ですね。

この事は、スクーリングでもふれていたのを思い出しました。

 

また、テレビの城番組でお馴染みの千田嘉博教授が「文化財学演習Ⅱ」に登場しています。わたしの時は無かったのですが、講義を聞きたかったですね。

 

以上ですが、秋までにコロナが収束していることを願うばかりです。

                            おわり

初夏を喜ぶ生きものたち(続き)

 先日、生きものたちの初夏の様子を書きましたが、その続きで2週間くらい経ってからも、次々とコロナ禍を吹き飛ばすような庭の生きものたちの新しい出来事が起きています。

 シャクナゲの大輪、いつもこの時期に咲く白い花(名前失念)が輝くほどに咲いています。

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シャクナゲ

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白い花 花木で多数咲きます。

クレマチス(テッセン)は幼虫に食べられましたが、しぶとく花を咲かせます。

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テッセンの蕾を食べる幼虫。よく見ないと分かりません。

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負けずに花咲くテッセン

 

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他のテッセン

シラン、スズランも毎年可憐に顔を見せてくれます。

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シラン たくさん増えます。

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可憐なスズラン


どこでも咲いている花です。

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ヒメジョオン キク科の道端などどこでも咲く花

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名前不明の紫の花


今年はトカゲが多く現れます。

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松の木にへばりつくニホントカゲ

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丸くなるトカゲ

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家に入って来たトカゲ 驚きました。トカゲも人間も。

 そし、て柴犬チロリも元気いっぱいですが、そろそろ老化の兆しが現れています。

以前は、ガツガツ直ぐに食べてしまうのですが、食べる時間が遅くなったようです。あれ、まだ食べていると思うようになりました。でも食慾はあり、頂戴、頂戴を連発します。また、散歩もあまり歩かず直ぐにハァーハァーと云ったり、いびきをかいて眠っている時間も多くなりました。老々介護も近づいてきたようです。

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眠っているの。チロリ

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庭に出ているチロリどこに行く

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何だいとチロリ

 今日はみどりの日、明日はこどもの日、いよいよゴールデンウイークも終わりに近づき、またコロナの喧騒な日々が戻ってきます。

                      おわり

高幡不動尊と安養寺

 前回、土方歳三について高幡不動尊、石田寺について書きましたが、もう一つ同じ真言宗のお寺「安養寺」にも行っています。

今回は、高幡不動尊と安養寺についてです。高幡不動尊は、京王線高幡不動駅(新宿から30分位のところ)から駅前の参道を経て平安時代から続く古刹へと向かいます。

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駅前の参道

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高幡不動尊金剛寺 川崎街道沿いにあります。

 高幡不動尊は、成田山新勝寺などとともに関東三大不動の一つとされます。寺伝によれば平安時代初期に円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により高幡山に開いたのが始まりとされます。正式名は、高幡山明王院金剛寺ですが、通称高幡不動尊や「高幡のお不動さん」と呼ばれています。

まず、仁王門から入ります。楼上の扁額は、山号の「高幡山」です。

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仁王門

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扁額「高幡山」
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阿吽の仁王像

 仁王門から直ぐに不動堂があります。ここには、もともと重要文化財不動明王坐像、両童子が安置されていたのですが大嵐で倒壊したため奥殿に移され、今は極彩色の等身大の身代わり本尊が新造されています。

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不動堂

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身代わり本尊

 その少し奥に奥殿があり、日本一の丈六不動三尊が安置されています。不動明王坐像と右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)像、左に制吒迦童子(せいたかどうじ)像が立ちます。不動明王像の像高は約2,8mで両童子像も2m前後と大型です。

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奥殿

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不動三尊像

 そして奥殿を過ぎ、山門を抜け突き当たった所が「鳴り龍」がある大日堂です。高幡山の総本堂でもあり、土方歳三の位牌が安置されています。

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大日堂

 聖天堂、大師堂、虚空蔵院と伽藍を下って見ていきます。

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聖天堂

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大師堂

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修業大師像

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虚空蔵院


 大日堂と聖天堂の間に、にこにこ地蔵がおります。掃除しているようで何となく癒されます。

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にこにこ地蔵

 また四国八十八カ所を模した巡拝コースや四季のみち、あじさい道もあるようで四季に合わせて歩くのも一興です。

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案内板

 最後に不動堂の向かい側に立つ五重塔に戻ります。5年かけて竣工した五重塔ですが総高45m、平安初期の様式を模した美しい塔です。やはり寺院の伽藍には無くてはならないものです。

相輪の金色が青空に映えます。夜の五重塔のライトアップも大変きれいなようです。

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五重塔

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五重塔内部

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金色の相輪

 

そして、高幡不動尊から多摩川の支流、浅川の向かい側にある安養寺を訪れます。真言宗智山派田村山安養寺の石塚の入口から山門に入ります。

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真言宗智山派田村山 安養寺

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安養寺山門

 安養寺の創立は明らかではありませんが、中世の豪族、田村氏の居館跡と云われています。現本堂は再建されたもので、その建立は18世紀初頭と見られます。

 本堂は室町期の作で、田村氏の書院を元に旧万願寺御堂内陣の一部を寄棟造りとして建てたと云われています。この本堂には、平安から鎌倉にかけての見事な仏像が並んでいます。

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安養寺の本堂

 本尊の阿弥陀仏如来坐像は、安養寺の前身である万願寺の本尊であったものと思われ、平安時代後期の作で、端麗で細部の手法も見事です。

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阿弥陀仏如来坐像

 そして、何といってもこの本堂の仏像の見ものは、鎌倉時代大日如来立像です。坐像以外の大日如来をこれまで見たことがありません。

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大日如来立像

 空海が将来した曼荼羅によれば、その姿には2種類あり、そのひとつである胎蔵界大日如来は、釈尊菩提樹のもとで仏法を悟ったときの坐法(結跏趺坐)と手印であらわされます。「法界定印」で、両手を仰向けに重ね親指をつけます。

 もうひとつの金剛界大日如来は、同じ坐法で、胸の前に左手をこぶしに握って人差し指を立て、それを右手で握る「智拳印」であらわされます。

 この安養寺の大日如来は、智拳印なので金剛界大日如来となるのですが、なぜ立っているのか不思議なのです。

如来は、修行を完成し悟りを開き、真理に到達した釈尊の姿であり、さらに密教の場合、真理そのものを象徴する大日如来は、曼荼羅の中尊、不動の中心として位置付けられので、坐っている姿が自然であると思いますが。

 

 最後に御朱印です。高幡不動不動明王で、不動明王の上の文字は不動明王を表わす梵字のようです。左に武州高幡山、右に奉拝 弘法大師御作と書かれています。安養寺は本尊阿弥陀如来です。

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高幡不動御朱印

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安養寺の御朱印

 

 東京都にもこのような貴重な珍しい仏像などがある寺院がまだまだあると思われます。他の興味深い寺院も探して参拝したいと思います。

                           おわり

土方歳三の生き方

 先日、東京都日野市の高幡不動尊金剛寺、石田寺と寺巡りをして来ましたが、何れも土方歳三に関係するお寺です。

土方歳三と云えば、幕末期に新選組副長として、局長近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争で各地を転戦し、最後の戦場になった箱館五稜郭にて戦死したという凄まじい生き方をした人です。

もう少し詳しい土方歳三についての歴史を調べてみる気になります。

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土方歳三箱館戦争時の肖像写真


 新選組の時の土方歳三の像と近藤勇土方歳三顕彰碑は、高幡不動尊金剛寺の山門の直ぐ左の場所にあります。

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高幡不動にある土方歳三

 

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隣に並ぶ近藤勇土方歳三 顕彰碑


 土方歳三は、天保6年(1835年) 武州多摩郡日野宿石田村(現東京都日野市石田)の豪農の生まれで青年時代は、家業の農業、薬製造を手伝いながら、近藤周助について剣術の天然理心流を学び、近藤勇沖田総司らと知り合います。

 文久3年(1863年)、近藤勇らと共に上洛し、浪士組に参加します。浪士組は、将軍徳川家茂上洛にあたり警備の目的で集められた浪士集団です。

その後、新選組を結成し近藤が局長、土方が副長となり京都の治安維持に努め、池田屋に潜伏していた長州藩土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した池田屋事件などが起こっています。

 慶応3年1867年に15代将軍・慶喜が将軍を辞して、大政奉還、王政復古の号が下り、翌年、鳥羽伏見の戦いが勃発し、新選組を指揮して戦いますが敗退します。

その後、勝沼、宇都宮、会津と転戦し仙台で榎本武揚の率いる幕府艦隊と合流しました。そして、北海道に渡り箱館政府設立に参加し、土方は陸軍奉行並に選任されます。

明治2年(1869年)官軍の攻撃が始まり、土方は弁天砲台に孤立した味方を助ける途中に流弾に倒れ無念の死を遂げました。

 土方歳三の生涯は、ざっとこのようなに戦いの連続でしたが、潔さを感じる一生でした。

近藤勇は慶応4年1868年5月に板橋刑場で斬首されています。

 

 土方歳三は、のちの洋装の写真や舶来の懐中時計を持っていた事などから、良いものはすぐに取り入れるなど合理主義者であったと思われます。

また、戊辰戦争において、宇都宮城を陥落させますが、このときに率いていた銃で武装した銃兵を土方は見事に指揮しています。

その後、会津から東北各地を転戦するうちに勝利を重ねるなど、西洋軍学にも理解を示して実践し、成果を上げています。

 このように自ら実践して新しいものを取り入れていくという柔軟な頭脳も持っていたのではないでしょうか。

 土方の一生のうち、最も関わりをもった人物として、近藤勇とともに榎本武揚が挙げられます。この榎本武揚もまた波乱万丈な生き方をしております。

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榎本武揚

 榎本武揚は、天保7年( 1836年)に江戸で生まれ、昌平坂学問所長崎海軍伝習所で学んだほかジョン万次郎の私塾で英語を学ぶなどします。

そして、幕府の開陽丸発注に伴い1862年にオランダへ留学し、砲術や造船術などを学んでいます。

 帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、「蝦夷共和国」の総裁となります。箱館戦争で敗北し降伏、東京の牢獄に2年半投獄されました。

戊辰戦争を戦った 土方歳三とは、仙台において合流して、土方と榎本は蝦夷地に渡り、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争において共闘することになったのです。

 

 投獄された榎本武揚は、敵将・黒田清隆により助命され、釈放後、明治政府に仕えることになります。

北海道開拓使、駐露特命全権公使を努めたあと、内閣制度開始後に、逓信大臣、外務大臣などを歴任し子爵となっています。

 

 話しは土方歳三に戻りますが、高幡不動尊金剛寺の近くに石田寺(せきでんじ)という同じ真言宗の寺院がありますが、土方歳三墓所がある小さなお寺です。

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石田寺山門

 お寺まで行くところの道すがら「土方」の表札を掲げる家が多くありますが、石田寺にあるお墓も殆どが土方姓のお墓でした。

 
 石田寺のカヤの大木は、枝ぶりも見事で樹齢400年以上と推定されています。

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石田寺のカヤの大木

 そして、このカヤの大木の直ぐ近くに、土方の碑と墓所があります。

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土方歳三義豊の碑 義豊は諱(いみな)

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土方歳三義豊の碑の横にある墓所を示す碑

 

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土方歳三義豊の墓

 新選組の主だった人は、局長近藤勇土方歳三ともに享年35歳、初代局長芹沢鴨、暗殺32歳、総長山南敬助、脱走により切腹32歳、沖田総司、病死24歳と、全て若くしてこの世を去っています。時代の波に翻弄されたとも云えます。

 土方歳三の木刀の柄頭に、「義」の文字が彫られていますが、まさに土方歳三は、義のために生きた、義のために一生を捧げた生き方をした魅力ある人物であったと思われます。

                           おわり