先日、世田谷観音を拝観しましたが、その帰りに、ご祭神が吉田松陰先生自身という松陰神社に立ち寄りました。
東急世田谷線(下高井戸⇔三軒茶屋)の松陰神社前駅で降り、徒歩数分の所にあります。
駅から北の方向へ、松陰神社通り商店街を歩くと、程なく看板が見えます。
看板の近くに松陰神社の扁額が下にあり、不思議に思いましたが、立て看板に説明が書いてあります。「松陰神社一之鳥居扁額」とあり、松陰神社一之鳥居(明治41年建立)に掛けられていた扁額。地震により落下損壊。現在は事故防止のため、掛けられていない。ということでした。
そして、鳥居の方へ行くと手前に「府社 松陰神社」と書かれた社号碑があります。
鳥居には、扁額が落下したためありませんが、中央に吉田家の家紋が入っています。五瓜に隅立て卍(ごかにすみたてまんじ)ですが、家紋の入った鳥居を初めて見ました。
鳥居の傍に松陰神社の説明板があります。
松陰神社の説明板の内容です。
「ご祭神:吉田寅次郎藤原矩方命(ふじわらのりかたのみこと)(吉田松陰先生)
吉田松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。明治15年11月21日松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。」ということです。
鳥居からまっすぐに拝殿まで参道が続きます。直ぐ途中に、吉田松陰先生像があります。明治23年に大熊氏廣氏によって製作された石膏像から鋳造されたブロンズ像です。
松陰神社ご鎮座130周年の記念事業として東京藝術大学に依頼し、平成25年4月完成しています。
また、松陰神社道の道標がありました。旧大山道から松陰神社に至る道の入口に建てられていた道標で、世田谷通りの拡幅事業の際に境内に移設されたようです。明治45年乃木希典公により寄進されています。
徳富蘇峰植樹の碑もあります。
徳富蘇峰(徳富蘆花の兄)は明治の言論人。肥後の生まれで、熊本洋学校をへて、同志社に学び、桂太郎と親交をもった。明治41年自身の著述「吉田松陰」発刊にあたり植樹をおこない、あわせて碑を建立したといいます。
そして、一番奥に拝殿、左に社務所があります。
拝殿の右手の方に行くと、松下村塾の案内が見えて来ます。
これは山口県萩市の松陰神社にある実物の松下村塾(幕末の1857年築)の模造で、国士舘大学の寄贈によるものです。
吉田松陰が子弟達に教育を施したのは、安政3年(1856)8月頃から安政5年(1858)末に投獄されるまでの、通算2年半程だったといわれます。
しかし、薫陶をうけた総勢90名程の塾生からは、久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、品川彌二郎、伊藤博文、野村靖など、明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材が育っていきました。
模造の松下村塾は、すべての建築材料は萩で集め、詳細に模倣して建てられましたが、その際に使用された毛利藩代官屋敷の古瓦が展示されています。
松下村塾の敷地にも松陰先生の像がありました。参道の松陰先生の像は厳しい雰囲気でしたが、こちらは少し穏やかな感じです。右奥は拝殿、中央奥に社務所が見えます。
境内には至る所に石燈籠がありますが、32基並んでいます。毛利元昭公をはじめ、門下生の伊藤博文・山縣有朋、井上馨、桂太郎、乃木希典等により奉献された石燈籠です。
境内西側に松陰先生と関係する方々の墓所が在ります。鳥居のある参道に向かいます。鳥居を進んで、突き当たりを右に曲がります。
墓所の入口に建てられているのは、修復の際、木戸孝允公によって寄進された鳥居です。「大政一 新之歳、木戸大江孝允」と刻まれています。
鳥居の右側に松陰先生他烈士墓所の説明板があります。
説明板には、「文久3年(1863)正月、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院より、この世田谷若林大夫山の楓の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。云々・・・」とあります。
墓所の改修経緯、松陰先生他烈士の墓の位置、烈士の説明が事細かく書かれています。
松陰先生の墓石は、特別なものではなく皆と一緒の質素なもので、松陰先生を取り囲むように建てられています。
墓所から帰る途中に、大黒様を祀った祠がありました。大黒様の笑顔と、それを囲むように沢山の福々しい木像に癒されます。
見どころが多数ありました松陰神社でした。要所々々に説明板により、詳しい説明がなされており、よく分かりました。
吉田松陰に対してあまり知識がありませんでした。しかし、西洋の文明や兵学を学ばねばと平戸に遊学、あるいはペリーの軍艦に乗船し米国に行こうとするなど意外に行動派だったことが分かります。
松陰が考えていたことは一貫して、師範にもなった山鹿流兵学では、西洋兵学に叶わず、日本を海外の列強から、どのように守るかという事かと思います。よく見る松陰の肖像画はとても30前とは見えませんが、満29歳で刑死とは早すぎました。
最後に御朱印です。松陰神社由緒の書と檜木材を使用した栞も戴きました。
おわり