元寇(蒙古襲来)

日本の歴史上、最も国家をゆるがす出来事の一つが元寇です。

元と高麗の軍勢が対馬壱岐から九州北部に2度にわたり押し寄せたのですが、2度とも神風が吹いたと云われてきました。

しかし最初の文永の役(1274)は、神風が吹いて元軍が壊滅したという信頼できる史料はありません。

今や教科書も神風は疑問視され、「元軍も損害が大きく内部対立などもあって退いた。」などと変化しているようです。

因みに弘安の役(1281)は、確かに神風は吹いたようです。

 

それでは、なぜ元朝5代皇帝のフビライは、執拗に日本に使節を送り、襲ってきたのでしょう。そして北条時宗フビライの送った使節に対し、完全に無視したのでしょうか。その背景を探ってみます。

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元朝5代皇帝フビライ・ハーン 初代皇帝チンギス・ハーンの孫 ハーンは遊牧民の支配者の称号

その時代の世界の勢力図はどうだったのでしょう。元朝は、第5代皇帝フビライの時代までに、北部の金(女真族)を南宋と手を組み1234年に滅ぼし、今度は南宋を1273年に制覇します。

朝鮮半島の高麗も1259年に属国としています。東アジアに残るのは日本だけです。

ヨーロッパにも進出し、1241年ポーランド・ドイツ連合軍とワールシュタットの戦いにおいて圧倒的に打ち破っています。

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ワールシュタットの戦い

左がモンゴル軍、右がポーランドチュートン騎士団連合軍(14世紀に書かれた聖人伝『シレジアの聖ヘドウィッヒの伝説』より)

このように元朝は、ユーラシア大陸にまたがる史上最大の帝国を築きます。

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史上最大の元朝の勢力図 

フビライは領土を侵略するだけでなく、異民族を積極的に登用するなど、国際感覚に優れた人物でもあります。

ヨーロッパから訪れた商人『東方見聞録』のマルコ・ポーロを厚遇しています。

フビライが日本へ関心を抱いたのは、日本の富のことを聞かされ興味を持ったからだとされています。

しかし、実際にマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話としてされていますが、真偽の程は定かではありません。

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マルコ・ポーロ

そこで日本進出の理由として最も考えられるのは、火薬の入手です。

火薬は「黒色火薬」とも言い、硝酸カリウム・硫黄・木炭の粉末を混ぜ合わせて作り出したもので、熱や刺激によって簡単に激しく燃えます。

火薬は9世紀ごろ中国で発明されたと言われ、元寇に「てつはう」と云われるものが使われています。

元軍が、争いに圧倒的に強いのは耐久力のあるモンゴル馬の騎馬軍と早くから火薬を用いた戦術です。

しかし、火山が少なく硫黄の入手が困難だった元は、日本に目を付けたのです。

日本は既に鎌倉幕府のもとで南宋と、私的な貿易や僧侶・商人の往来など盛んに行われており、硫黄も日本から輸出されていました。

日本が火薬を使った武器に遭遇するのは元寇の時です。

初めて見る「てつはう(てっぽう)」は今の「鉄砲」とはだいぶ形が異なり、大きな金平糖のようですが、発射すると空中で爆発しその音や閃光はすさまじく、日本側は武士も馬も肝をつぶしたと言われています。

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てつはう

日本に黒色火薬の製法が伝わったのは、元の襲来からしばらく経った14世紀頃です。

 

それでは迎え撃つ日本の体制はどうだったのでしょう。北条時宗が1268年に18歳のときに執権に就任します。

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満願寺所蔵の伝北条時宗

フビライの国書を持った高麗の使節太宰府へと来訪します。

この最初の元の国書、蒙古国牒状(もうここくちょうじょう)の最後に見える「兵を用いるようなことは、どうして好むだろうか」という文言は、服属拒否の場合の武力行使をほのめかした、脅しともとれる表現で到底受け入れられない内容であったのです。

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『蒙古國牒状』

執権になってまだ1年に満たない時宗は、返書を送らずフビライの要求を断固拒否する態度を示しました。

18歳の少壮気鋭の執権のもとに結束し、元軍の侵攻にあたることを決意したのです。

2度目の国書その内容は最初の国書(1268年)にくらべ、かなり過激な表現になっています。

そこには「翌春までに『元に服属する』という返事をよこせ」とあり、もしも返事がなかった場合には、1万隻の艦隊を派遣して京都を制圧してくれよう。きっと後悔することになるぞ」と書かれてありましたが、この時も時宗は、返書も送らず無視したのです。時宗は、その時の友好国の南宋を裏切りたくなかったと思われます。

それからフビライは、合計6度の使節を送るのですが、日本の窓口が、対馬太宰府、京都の朝廷、鎌倉の幕府となかなか意思疎通がとれません。

そのうえ当時の国政は、外交は朝廷の担当であったことや元と日本とが手を組むことを恐れた「三別抄」(高麗王朝の軍事組織)の妨害などがあり、遂に弘安の役が始まるのです。

弘安の役では前述のとおり台風の季節ではないため神風は吹かず、鎌倉幕府の執権時宗を中心とした御家人たちの奮戦によって退かせたのです。

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蒙古襲来絵詞』前巻 元軍に突撃する竹崎季長 「てつはう」が炸裂している

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蒙古襲来絵詞』後巻 元寇防塁と思しき石築地とその上に陣取る御家人たち

そして文永の役までに6回の元の使節が来日、そして文永の役で引き返した後に7回目の使節団を初めて鎌倉に呼び寄せ、5名を斬首に処しています。

その1年後の第2次襲来の弘安の役では、台風と見られる暴風雨が元軍に大打撃を与えたことは多くの史料が伝えています。

しかしそれだけでは無いようです。元軍は、元と高麗の東路軍4万、旧南宋を中心とした江南軍10万の合計14万人のいわば3国の多国籍軍で、言語などで統制がとれていなかったためと考えられます。

結局のところ元寇により、両国とも大きなダメージを被ったのです。

弘安の役で大敗を喫した元は、その海軍力のほとんどを失い、他方、日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が急速に進みます。

 

その後の北条時宗フビライはどうなったのでしょう。

時宗禅宗に帰依するなど信心深く、蘭渓道隆から教えを受け、蘭渓道隆が死去すると宋から無学祖元を招聘します。

弘安の役の翌年、1282年に時宗は、元寇戦没者追悼の為、敵味方の区別なく弔うため無学祖元を開山に円覚寺を建立しました。

弘安の役は31歳のときであり、死没したのは享年34歳、満32歳の若さでした。

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円覚寺三門

一方のフビライは、日本侵攻を諦めきれず3度目の日本侵攻を計画するのです。

その後も何度も使節団を派遣します。

しかし1287年に大越国(ベトナム)攻略に失敗したため、3度目の日本侵攻は行われませんでした。

そして1294年、孫テムルに政権を譲って、79歳でその激動の生涯を終えました。

偉大な人物ですね。

フビライは日本の歴史にも大きな影響を与えた人物と云えます。

尚、元寇の様子は、幣ブログ「対馬」にも1部出てきます。

https://kumacare.hatenablog.com/entry/2019/11/04/091842

                         おわり