上野の「開山堂(両大師)」

 最澄の展示会で、比叡山延暦寺の復興に深く関わっている人物二人が異彩を放って展示されていましたが、「慈恵大師(じえだいし)」と「慈眼大師(じげんだいし)」という僧です。

東京国立博物館の近くに両方の大師を祀っている寺院があります。正門を出て左に直ぐの所にある開山堂です。

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開山堂山門

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山門から本堂へ

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本堂

 慈恵大師の良源は、平安時代天台宗の僧で、身分も高くなく最澄の直系の弟子ではなかったのですが、天台宗最高の地位である天台座主に上り詰めています。

延暦寺は、承平5年(935年)の大規模火災などに見舞われましたが良源は、度重なる火災で荒廃していた比叡山の堂宇の復興と教学の振興に尽力され、比叡山延暦寺の中興の祖と称賛されました。

 また、大変に霊力に優れていたことから、慈恵大師のお姿を護符にした「角(つの)大師」「豆大師」という魔除けの大師として現在も信仰されています。

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元三大師と角大師(『天明改正 元三大師御鬮繪抄』仙鶴堂発行 より

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角大師 

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豆大師

 天台宗の寺院を訪れると、庫裡の玄関口などに何やら恐ろしげな、それでいてユーモラスな魔物のような姿の札が貼られているのを、よく目にします。これが良源大僧正の魔除けの札だったのですね。

また、命日が正月の3日であることから、「元三大師(がんざんだいし)」の通称で親しまれています。

 

 一方の慈眼大師の天海は、東の比叡山として江戸時代に東叡山寛永寺を創建した僧です。もともと開山堂の創建は、江戸時代の正保元元年(1664年)で前年に亡くなられた天海大僧正を祀るお堂「開山堂」でした。

後に寛永寺本坊内にあった慈恵堂から慈恵大師像を移し、慈恵・慈眼の両大師をお祀りしたことから、一般に「両大師」と呼ばれています。

 そして、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと云われています。これを天海がさらに庶民に広め、江戸時代では、寺社でおみくじを引くことが広く行われたということです。

良源は平安時代、天海は江戸時代の人物ですが、何か共通点があり繋がりのある不思議な二人の僧の感じがします。

 

 江戸時代には上野に広大な伽藍のある寛永寺でしたが、明治維新上野戦争で焼失し、現在は分散されております。それらのお寺を東京国立博物館の展示鑑賞の帰りにですが、観て周っています。

 今まで上野大仏、旧寛永寺五重塔上野東照宮、清水観音堂、寛永寺(根本中堂)をお参りしましたが、今回、開山堂(両大師)に続いて、「不忍池辯(弁)天堂」を観に行き終わりとなりそうです。

 さて、不忍池辯天堂は、江戸初期の寛永年間に、寛永寺の開山、慈眼大師天海によって建立されました。天海は、「見立て」という手法により上野の山を設計し、西の天台宗の拠点・比叡山に対して東叡山という山号を決め、寛永年間に創建ということで寺号を寛永寺に定めます。
江戸城から見て鬼門の丑寅(北東)の方角にあたる上野山に、方位学的な吉相を高めるために東叡山寛永寺を配置します。

天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、元々あった聖天が祀られた小さな島を竹生島に見立てます。そして竹生島の「宝厳寺」に見立てたお堂、不忍池辯天堂を創建したのです。当初は、船を使用していたのですが、江戸庶民の参詣が増えたため江戸時代に橋がかけられました。

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不忍池 雨が降らずハスの葉は枯れています。

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       不忍池辯天堂へ

 弁天堂にお祀りされる御本尊の辯才天は、元来インドの女神で「水に富むもの」の意味をもち、仏教に取り込まれてからは「音楽、弁才、財福、智慧」などの福徳の天部の神として広く深く信仰、伝承されるようになったということです。

 一般に琵琶を持った姿で知られていますが、辯天堂の辯天さまは八本の腕があり、煩悩を破壊する道具を意味する武器を持つ「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」という秘仏で、年に1度開帳されます。

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辯天堂の前の琵琶

 辯才天は水に関わる神で化身は巳(蛇)であり、宇賀神王は五穀豊穣の農業神で、人頭蛇身(老翁の顔に体は蛇)の姿にて穀物の豊作を祈り、七宝を降らして衆生に利益を与えるという福徳神です。このお堂に宇賀神王を祀って、参拝者はお祈りしています。

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辯天堂の参拝者

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宇賀神王

 また、辯天堂には、谷中七福神とは別に「大黒天」がお祀りされています。こちらの大黒さまは、幕末の戦争や太平洋戦争といった難を免れ、今日に伝わっています。
大黒天は、福を授ける神・福を招く神として知られ、家門繁栄などのご利益があります。

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大黒堂

 辯天堂の帰りに、ふと見上げると清水観音堂の「月の松」が見えます。寛永寺の境内に京都清水寺風の造りの清水観音堂を建立したのも天海なのです。月の松の円の中に、この「不忍池辯天堂」が収まるような仕掛けになっています。

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月の松

 徳川幕府の庇護の下、上野の山に壮大な見立てを行った天海は、相当な権力を持っていたと思われます。

 最後に御朱印です。開山堂と辯天堂のものがあります。

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開山堂 慈恵大師

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不忍池辯天堂 辯財天

                          おわり