調布市の国領神社から徒歩で10分程、野川を超えると祇園寺があります。
野川は、国分寺市の大池を源とし、国分寺崖線沿いに小金井市、三鷹市、 調布市、狛江市を経て、世田谷区二子玉川付近で多摩川に合流する河川です。住宅地の中で、河道内を散策でき、緑あふれる川の様子です。
天台宗寺院の祇園寺は、虎狛山日光院祇園寺と号します。深大寺を開創した満功(まんくう)上人が天平勝宝2年(750)に創建したと伝えられ、当初は法相宗でしたが平安期に入り天台宗に改宗され、現在に至ります。
歴史を記す資料は殆ど散佚してしまいましたが、近世になると、「武蔵名勝図会」「新篇武蔵風土記稿」「江戸名所図会」等にしばしば紹介されています。
入口は、左右に祇園寺、天台宗と刻まれた寺号標から入ります。そして出迎えるのは、石人像です。日本の石人像は、奈良県の飛鳥地方のものが有名ですが、やはり中国、朝鮮半島から伝わったと思われます。
参道を真っ直ぐ行くと本堂です。本堂は、昭和53年に再建されています。ご本尊の阿弥陀如来像は、彫刻家の故澤田政廣氏が文化勲章授章の記念として、自ら制作・寄贈されたものです。
正面下部に亀を乗せた象の像が2体あります。これはどういう意味なのでしょうか。
ここには、調布七福神の一つ福禄寿が、幸福・金運・長寿の神として本堂に祀られています。また、水木しげる氏作の「ゲゲゲの鬼太郎」では、本堂の縁の下が妖怪の集会場として登場しています。
薬師堂は、享保年間と推定される建造物ですが、平成17年に再建されました。
秘仏の薬師三尊は、行基菩薩の一木三体の作で、下野日光社の薬師如来もこの一体だと伝えられています。通称「佐須のお薬師さん」と親しまれ、眼病をはじめ諸病平癒に霊験あらたかであり、他にも厄除け、家内安全、縁結び等を願う人も多く訪れます。
御前立ちの薬師三尊は、『往生要集』を記し日本浄土教の祖、恵心僧都の作と伝えられます。江戸から明治時代にかけて毎月12日の縁日には、生姜市で大変賑わったといいます。
現在では、毎年9月12日に薬師大祭を行なっており、宝前に供えられた名物の目玉団子は、眼病・諸病平癒を願う参詣者に昔より大変有難く求められています。
閻魔堂は、桃山時代の遺構を残す建造物でしたが、平成22年に再建されました。中央坐像の閻魔大王は、新宿区の大宗寺と兄弟閻魔と伝えら、両脇には十王が向き合った形で祀られています。1、8月の16日に閻魔大王供が法修されています。
新宿大宗寺と兄弟閻魔ということですが、わたしは昨年の6月に大宗寺を訪れていますが、なるほど閻魔大王の造形が似ています。
その他、境内には板垣退助植樹の松、「自由の松」があります。
明治41年、祇園寺で、当時住職であった中西悟玄師によって、秩父事件をはじめとする自由民権運動の犠牲者を弔う追悼集会が開催されました。
この松は、追悼集会に参列した板垣退助が記念に植樹したと伝えられるアカマツで、地元では「自由の松」の名で親しまれています。
明治期当時の住職、中西悟玄師は日本野鳥の会設立者である中西悟堂氏の養父にあたり、悟堂氏も十代の多感な時期をこの祇園寺で過しました。
悟玄師は、入寺以前は政治家として世界各地を駆け巡りました。また、板垣退助率いる自由党の党員であったため、自由民権運動殉難者慰霊法要を勤修し、追悼会が催されたものです。その時、板垣退助の手によって植えられた二本のアカマツは「自由の松」と称され、「板垣死すとも自由は死せず」という板垣の言葉通り、現在も天高く聳えています。
中西悟堂の歌碑もあります。
思ふこと みな砕け行く たまゆらを 恃みつつ 組む 調息の坐か 悟堂
今回訪問の祇園寺は、天平年間開創の霊亀伝説による縁結びゆかりのお寺という、歴史のある、そしてユニークな寺院でした。寺号から京都の祇園を彷彿させますが、なかなか興味深い仏像がありました。
特に薬師堂の秘仏、薬師三尊は、奈良の大仏造立の実質上の責任者だった行基菩薩の作ということです。行基菩薩には、奈良に行ったときには、いつもお逢いしています。近鉄奈良駅前の銅像ですが。
秘仏ということで御開帳がいつか分かりませんが、拝観したいものです。毎年9月12日に薬師大祭があるそうで、御前立を拝観に行きたいと思います。
尚、寺宝として「弘法大師筆跡心経一巻」、「鉄仏僧形八幡菩薩像」があるようです。
僧形八幡菩薩像は、鎌倉後期の作です。袖付の衣を纏い胸前で両手を衣に包み、両足を横に広げる像容から神像として作られたと考えられています。この坐像は数少ない鋳鉄の神像として調布の指定有形文化財になっています。
御朱印は、寺務所で戴きました。天台宗のお寺なので角大師の看板があります。御朱印の文字は、「佐須薬師」です。尚、寺務所の近くに平成21年に奉献された水琴窟があります。佐須は地名です。
祇園寺境内説明看板
おわり