「鬼の半蔵」が開基のお寺 新宿区の「西念寺」

 今回の散策は、東京都新宿区の四谷界隈です。以前も四谷三丁目から「お岩さん」の陽運寺、「君の名は」の舞台、須賀神社などを参拝しました。今回はそこから少し東寄りのお寺の多い若葉町の一帯です。

JR四ツ谷駅の改札です。

「四谷」ではなく「四ツ谷」とありますが、他でも両方使われているようです。四谷駅の歴史コーナーです。

 江戸時代の四谷エリアには、五街道のひとつ「甲州街道」が整備され、四谷はその沿道の街として発展した長い歴史を持つ街です。

四ツ谷駅から西の方向へ7,8分程歩くと浄土宗の西念寺(さいねんじ)に着きます。

 

御由緒

 西念寺は、忍者として有名な服部半蔵正成の開基によって、松平信康徳川家康嫡男)の供養の為に開創されました。

 服部半蔵(1542~96)は、本名を正成と云い、徳川家康三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将です。「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1573)の三方ヶ原の戦い天正18年(1590)の小田原攻めで功をあげ、知行八千石を賜り、家康の江戸入府後は、城の警備にあたりました。

 家康の長男、信康の切腹に際し、介錯を命ぜられた半蔵は、任を果たせず、以後信康を供養するため仏門に入ります。天正18年(1590)、家康は江戸に入国し、江戸城を築き本拠を置いたことに伴い、半蔵も随伴し江戸に入国しました。

 しかし、信康公の御霊を弔うために剃髪出家し、信康の遺髪をここに埋めて、専称念仏の日々を送ります。その後、同所に一宇の建立がなり、山号院号・寺号は、この法名からとり「専称山安養院西念寺」となりました。

 

境内へ

山門です。

門に「三つ葉葵」の寺紋があります。

 

 山門の脇に、槍の名手「服部半蔵の槍」の説明掲示板です。(新宿区教育委員会

 

 正面の本堂です。

 

 

扁額は山号の専称山。

 

 本堂には、御本尊の阿弥陀如来立像、両脇侍に観音菩薩立像、勢至菩薩立像の三尊像が安置されています。

 

 また、服部半蔵が、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦の戦功により、徳川家康から拝領したと伝わる長さ約258㎝の槍も安置されています。

戦国時代の槍が、半蔵が創建した西念寺に伝存している点で貴重な歴史資料です。新宿区の文化財に登録されています。

 

服部半蔵の墓 

本堂の右側に「服部半蔵の墓」があります。

新宿区教育委員会の説明掲示板です。

 服部半蔵は、代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主です。忍者だったのは初代半蔵の保長だけであり、この墓の2代目服部半蔵正成以降は忍者ではなかったとされます。

 初代の服部半蔵保長は、生国である伊賀から三河に住み、松平清康松平広忠に仕え、以降、徳川家の譜代家臣となっています。この墓の2代目服部半蔵正成は、徳川家康に仕えて武功立て、8千石の大身旗本となりました。 

 半蔵門の名称については、この門の警固をした徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとされます。西念寺から新宿通りを逆に都心方向に東上すると旧江戸城半蔵門に達します。

 

松平信康の供養塔

服部半蔵の墓の傍に岡崎三郎信康供養塔があります。

 信康は、永禄2年(1559)松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で生まれました。母は今川義元の姪・築山殿(つきやまどの)です。築山殿は、まさに今NHK大河ドラマで放映中の「どうする家康」では「瀬名」と名乗っています。
 信康は、のちに、松平宗家の居城の岡崎城主を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗っています。永禄10年(1567)、信長の娘・五徳と結婚します。9歳同士の政略結婚でした。
 その後、家康が浜松城に移ったことから、岡崎城を譲られ、信長より「信」の字を、父・家康から「康」の字を与えられて信康と名乗ります。元亀元年(1570)に正式に岡崎城主となっています。

 

 そして、信康の切腹事件が起こります。

信康の切腹事件

 この切腹については幕府成立後の大久保彦左衛門著の『三河物語』が通説化しています。現代語訳の色々な本が出ています。

 それによると、「丑の年、天正7年(1579)信長の5女、五徳(徳姫)は信康の中傷を12カ条書き、徳川家の重臣酒井忠次(左衛門督)に持たせて信長へ送った。

信長は、忠次を近づけて、巻物を開き一つ一つを指さしてはお尋ねになる。忠次は「その通りです。」と申し上げる。

信長は「徳川家中の老臣が全てその通りと云うのなら疑いない。それならとても放置しておけぬ。切腹させよと家康に申せ」とおっしゃる。

 忠次は承知して、岡崎に寄ることなく、直接浜松城へ行き、家康にこのことを申し上げた。

家康はあれこれ言うまいと受け入れ、やむをえず信康の処断を決断した。」ということです。信長の権勢を恐れて、家康もなす術はなかったということでしょうか。

 まず築山殿が二俣城への護送中に殺害され、さらに、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じたのです。

 天正7年(1579)、信康は時に享年21歳です。信康の遺体は二俣城から小松原長安院に葬られました。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、寺の名を「清瀧寺」と改めました。

浜松市天竜区二俣町の清瀧寺本堂です。

 

清瀧寺内の信康廟です。

 

 

 西念寺境内の墓地には、他にも石仏の墓などがあります。

月影塔(合祀墓)です。

 

永代供養墓です。

 

御朱印は寺務所で戴きました。

 

寺務所の前の蓮の花が綺麗に咲いていました。



寺務所の玄関の中です。右側から本堂へと続いています。



御朱印は、御本尊の阿弥陀如来と鬼の半蔵です。

 

 服部半蔵と槍の絵葉書、パンフレットも戴きました。

 

所感

 このような都心の寺院に、服部半蔵の墓や信康の供養塔があるとは知りませんでした。都心の寺院の参拝を続けていますが、まだまだ歴史ある寺院が数多くありそうで、続けて訪問したいと思います。

 

 ところで信康と半蔵の話しです。信康の切腹の時、信康の介錯人を命じられたのが半蔵でした。しかし、いかに命令とはいえ、仕えていた主君に刃を向けることが出来ず、検死役の天方道綱が代わって、服部半蔵介錯にあたったと云われます。

 任を果たせず、世の無常を感じ、信康公の冥福を祈る為、仏門に入ったと云います。一生を懸けて弔うという服部半蔵の胸中は、察するに余り有ります。

 

 現在放映中の大河ドラマ「どうする家康」と同時進行位ですが、悲劇の主人公、信康の切腹事件がどう描かれるか見ものです。

長篠の戦い天正3年(1575)、

瀬名の殺害が天正7年(1579)8月29日

信康の切腹天正7年(1579)9月15日です。

 

 『三河物語』では信康を中傷した五徳と庇わなかった酒井忠次をこの事件の悪者とされています。

しかし、『三河物語』は五徳主導でしたが、『当代記』では全く正反対で、家康主導でこの事件があったとされています。

 先日の放映では、『三河物語』の筋書きを連想させるような五徳の突出した徳川家を見下す態度、夫・信康、姑・築山殿との確執が描かれていました。

三河物語』には、五徳が夫・信康を中傷したとする12カ条の書状の内容などは記されていませんでした。

 信康がなぜ切腹したのか、なぜ瀬名も殺されたのかが史料上も明確になっていないようで疑問の多い事件です。その点、ドラマの脚本は自由に想像し描くことが出来るので、どう描かれるか興味深いところです。

 

 今後、武田勝頼の死、本能寺の変、秀吉との確執と和睦、朝鮮出兵と秀吉の死などエピソードは豊富で、どう展開するか、楽しみなところでもあります。

大河ドラマは殆ど見ないのですが、最近、家康の二男の開基の寺院の森厳寺、そして今回の家康の嫡男の信康と続いたため少し調べてみました。歴史は謎が多いだけに興味深いものです。

 

参考:西念寺公式サイト

   西念寺パンフレット

   境内説明掲示

   大久保彦左衛門原著 小林賢章

     『三河物語』教育社発行1980

                 おわり