東京都世田谷区「烏山寺町」  二代将軍徳川秀忠ゆかりの「幸龍寺」

 世田谷区「烏山寺町」の散策が続きます。多聞寺の向かい側にあるのが、今回紹介する日蓮宗の寺院、「幸龍寺」です。山号は、妙祐山。

 幸龍寺の山門前の景観です。

 

山門の前にある、日蓮宗の題目を刻んだ題目塔です。

 

そして、山門正面です。突き当たるに本堂がみえます。

 扁額は山号の妙祐山です。山門の右柱に、寺号の日蓮宗幸龍寺と書かれ、左柱には「柏原大明神」、「清正大神祇」安置とあります。

 柏原大明神は、江戸時代、頭痛に霊験があるとして信仰を集めたと云います。

 この寺院には、「清正公堂」があります。加藤清正は、名将であり、武運が強いことでも知られていますが、「清正公大神祇」(せいしょうこうだいじんぎ)として祀られています。

 

御由緒

 幸龍寺の塀の右側の方に、世田谷区教育委員会の由緒の説明掲示板があります。

 徳川家康がまだ浜松城主のとき、天正7年(1579)徳川秀忠が誕生。家康は、乳母の大姥の局の願いをいれて城下に堂宇を建立、玄龍院日偆聖人を開山に招き、徳川家の祈願寺にしました。

 二代将軍・秀忠の母は、大河ドラマ「どうする家康」に登場する於愛の方で、広瀬アリスさんが演じています。

家康の江戸入府に従って神田湯島に寺地を与えられ、その後、浅草に移転。大正12年(1923)関東大震災により焼失、昭和2年(1927)より現在地に移転し今に至っています。

 

山門から境内へ

 山門は、境内の東側にありますが、境内に入ると開放的で、緑も多い寺院です。

 山門の真っ直ぐ向こうに本堂があり、左には鐘楼、右には「清正公堂」があります。

清正公堂の方へ行き、先ず手水舎で身を清めます。手水舎は彫り物をあしらった立派な舎です。

 

 「百度石」が目に留まります。

 お百度は通常、参道の入口から本堂までの間を往復しますが、百度石があれば、そこを基点として本堂までを往復するようです。お百度参りは、願いを叶えてもらおうとする仏様や神様に、100回お参りして祈願することです。

 

清正公堂

 境内の北側になりますが、清正公堂があります。

 境内にある堂宇のうち、清正公堂と山門は関東大震災の被害を免れてこの地に移築されたものです。

 

神社みたいですが、阿吽の狛犬もいます。



清正公堂の正面です。

 

 清正公堂の内部です。厨子が見えます。

 

 清正公堂の正面には見事な彫刻が施されています。童子、兎、獅子などが見えます。

 

 清正公堂の手前に「浄行菩薩堂」があります。

 

 そこに祀られる浄行菩薩は、日蓮宗における四菩薩の一つで、この世を浄化し、人々の罪や穢れを洗い清めると云います。

 

本堂へ

山門からの参道に戻って本堂に向かいます。直ぐ左側の鐘楼です。

 

 参道の右側には、『君が代』に詠まれている「さざれ石」があります。

 

さざれ石の説明掲示板もあります。

 さざれ石は、別の寺院でも見かけます。特にこの石は「国歌発祥の地」と云われる岐阜県揖斐郡春日村の山中より算出されたもので、集結の行程が、この石を一見してよく知ることが出来ます。

 

 そして 、本堂です。昭和37年に再建されました。本尊の大曼荼羅などの文化財が所蔵されています。

 

 本堂の右側に煌明殿があります。客殿として使われているようです。

 

 

墓所

 境内の西側一帯は、広い墓地になっています。墓域には、『江戸名所図会』の挿絵を担当した長谷川雪旦の墓、その他に順性院(お夏の方、徳川家光側室)、旧唐津藩藩主小笠原家累代の墓などがあります。

唐津藩主・小笠原家累代墓所

 

墓地の手前に、石碑や庚申塔が並んでいます。

石碑、石仏です。

 

 庚申塔です。

 

御朱印

 御朱印は、天 晴会館で、受け付けています若い住職が親切に対応頂きました。


天 晴会館受付です。

 

御朱印です。

 

 

所感

 この幸龍寺は、家康、秀忠そして家光と三代に渡って徳川家に関連があった寺院です。

 浜松城下の徳川家の祈願寺として始まった幸龍寺は、家康と共に駿府、そして江戸入府しました。その後は神田湯島、浅草と移転しましたが、寺地、朱印は拡大していきます。

 浅草では屈指の巨刹となり、塔頭8ヶ寺を擁し、谷中の宗林寺・本所の法恩寺と共に京都・本圀寺の触頭(ふれがしら)でもあったようです。

 都内の寺院は、関東大震災、大戦下の東京大空襲を経験しており伽藍、文化財などを失った寺院は少なくありません。

この幸龍寺も例外ではありませんが、現在のように本堂、天晴会館、煌明殿などが再建されています。また、山門、清正公堂は、浅草より移転した江戸天保年間の作と伝わります。煌明殿隣の大書院は、細川侯爵家から移築したものです。

 この様に、現在の烏山寺町への移転は、昭和2年(1927)より何年もかけて完了しています。経緯の詳細は分かりませんが、歴代の住職等関係者の御努力は、並大抵のことではなかったと推察します。

 幸龍寺には、本尊の大曼荼羅、祖師像、鬼子母神十羅刹女像、加藤清正公筆軸など貴重な文化財を多数所蔵されているようなので一度拝見したいものです。

 参考資料

  幸龍寺略由緒レリーフ

  境内説明掲示

                    おわり