世田谷区烏山寺町 江戸の俳人宝井其角の墓  浄土宗「称往院」

 東京都世田谷区「烏山寺町」の散策が、まだまだ続きます。今回は、浄土宗の寺院、「称往寺(しょうおういん)」です。旧漢字で偁往院で、寺院内は、偁往院で統一していました。

称往寺は、既報の寺町通り沿い、「幸龍寺」と「妙寿寺」との間にあります。

 山門です。直ぐ本堂が見える位狭い感じですが、左側に宝晋堂や墓地などがあり、以外に広いです。

 

浄土宗の宗紋

各所に使われている寺紋です。

「月影杏葉(つきかげぎょうよう)」と呼ばれる紋です。浄土宗の宗紋となっています。

 

御由緒

 称往院は、慶長元年(1596)白誉称往(はくよしょうおう)上人により湯島に創建されました。しかし、明暦の大火で浅草に移転し、関東大震災により、昭和二年に当地に移転しています。

 浅草の頃、称往院は、寺内の道光庵の庵主のつくる蕎麦が評判となり、「そば切り寺」とも称され、文人墨客が多数訪れていました。

 しかし、修行の妨げになるとして天明6年(1786)「蕎麦禁制」の碑が当時住職により建てられました。この碑は、同庵にあった俳人宝井其角の句碑、墓とともに現在、当地に残されています。 山号は、一心山、寺号は極楽寺です。

世田谷区教育委員会の説明掲示板があります。

 

山門から境内へ

山門から境内へ入ると参道が延び、右側に庫裡など、左側に石碑、石像、宝晋堂、墓地などがあります。

 

 真っ直ぐに参道が本堂まで延びていますが、境内の石碑などを見て行きます。

まず、浄土宗の「南無阿弥陀仏」のお題目石碑があります。

 

隣に、穏やかなお顔の地蔵菩薩です。

 

その隣にも木の陰で隠れていますが、「南無阿弥陀仏」の石碑があります。

 

本堂

そして、本堂です。御本尊は、丈六の阿弥陀如来です。

 

扁額は、寺号の「極楽寺」です。


 本堂の正面の下に隠れるように獅子がいました。以前、使われていたのでしょうか。「何でこんな所に。」と、怒っているようです。

 

「不許蕎麦入境内」の石碑

 本堂の前に、長身の石碑があります。上の部分がよく読めませんが、法然上人の和歌のようです。その下に「園光大師巡礼之処第18番」と刻まれています。

 

その右側面に「不許蕎麦入境内」と刻まれています。

 

 これには、浅草の頃の事ですが、次の由来があります。

称往院境内の道光庵主は信州人で、蕎麦をつくることが上手です。檀家の参詣人に自製の信州蕎麦をごちそうしたところ、あまり旨いのでいつのまにか評判になり、念仏道場に来る人々にせがまれて、実費で分かつようになった。

 しかし、蕎麦が有名になるほどに、庵主の本来の業が怠りがちなので、称往院住職は、遂に蕎麦を当院より追放するという碑を建てた。」という事です。
 これが「不許蕎麦入境内」という意味の石碑だったのです。

 

三心の鐘

 本堂の左側に竹の棒で柵をしていますが、脇道があります。

 

その先に「三心の鐘」がありました。

 

 三心の鐘とは、次の説明がありました。

・至誠心(しじょうしん)

・深心 (じんしん)

・回向発願心(えこうほつがんしん)の三つです。

 あなたのこころに「まごころ」、「信仰の心」、「世に尽くす心」を忘れていませんか、ということのようです。

 

江戸時代の俳人宝井其角墓所と「宝晋堂」

 本堂の左脇に、江戸時代前期の俳人宝井其角を祀っている「宝晋堂」というお堂があります。

 

其角の木像が安置されています。

 

 傍らに、榎本東順(父)と其角の墓碑が仲良く並んでいます。

 

 宝晋堂の前に句碑らしきものがありますがよく読めません。「其角墓・・・ 道光庵」が読めます。

 

 そして、なおも左側に「南無阿弥陀仏」の石碑を前に、無縁仏が多数積み重なっています。

 

 最後に御朱印です。御朱印は庫裡において、住職が丁寧に対応して頂きました。

 

所感

 この寺院もやはり「明暦の大火」そして関東大震災により罹災しています。明暦の大火は、江戸三大大火の一つで、死者は最大で10万7000人と推計される江戸一番の大火でした。

 この称往院もまた、烏山寺町に移転し、見事に復興しています。浅草の地から移転した「不許蕎麦入境内」の石碑も面白いエピソードです。そばやの屋号に、「○○庵」というのが多いのは、この道光庵の蕎麦の故事の名残であるとは、初めて知りました。

 

 また、宝井其角との縁を大事にして、宝晋堂に祀っていいます。この名称は、其角の別号「宝晋斎」からとったようです。

 宝井其角芭蕉に入門し、蕉門十哲の一人です。其角と云えば忠臣蔵を思い出されます。赤穂義士討ち入り前夜、四十七士の一人、大高源吾と会います。煤竹売りに身をやつした姿を憐れんで「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行を仄めかしたとされます。しかし、この逸話は後世に作られた話のようです。江戸の文人はいきです。

 蕎麦禁の石碑や其角の墓所は、分かり難い所にあるので、参拝の際は、注意深く見過ごさないようにと思います。なかなかユニークな寺院でした。

                       おわり