世田谷区烏山の寺町通りの散策です。この通り沿いに26もの寺院が軒を連ねており、「小京都」と呼ばれる落ち着いた雰囲気の所です。このような近い所に、ここが東京かと思われる白壁の連なりがあるとは思いませんでした。
寺町それぞれの寺院は、長い歴史がありますが、関東大震災や太平洋戦争の後、甚大な被害に遭いました。復興を目指す区画整理事業で、浅草、築地、本所、荒川など都心部から移転してきて寺院が集まったようです。
お寺の多くは、広大な伽藍のある寺院ではありませんが、それぞれに歴史があり、興味深い特色を持っていた寺院も少なくありません。
京王線の千歳烏山駅から「寺町通り」と云う北へ延びる通りがあります。
その通りをあくまで真っ直ぐ行き、甲州街道を過ぎ、中央自動車道をも過ぎます。
すると、景色が一変して、寺院が通りの両側に現われます。駅から10数分位の所です。
最初に、石造りの落ち着いた門構えの「多聞院」を訪問しました。
山門です。
多聞院の歴史
真言宗豊山派の寺院である多聞院は、正式名を「金剛山 悲願寺 多聞院」と云います。
多聞院は、述誉上人が開山、村内名主傳右衛門先祖與兵衛(法名天雪舊満)が開基となり寛永5年(1628)新宿角筈村に創建されます。
昭和20年(1945)の大空襲で全ての堂宇を焼失し、区画整理事業により昭和30年当地へ移転しました。多聞院は「烏山寺町」を構成する26の寺院の中では、最後に烏山に移転してきた寺院です
境内へ
境内に入ると開放的で、緑も多い寺院です。
「心をほしいままにすれば 苦悩が生れる。 慎まねばならない」の標語。弘法大師の言葉でしょうか。
本堂は真っ直ぐ中央ですが、左側に石碑が並んでいす。
遊具もあります。
そして、本堂です。本堂に御本尊の地蔵菩薩像が安置されています。
本堂の前にある「多門院案内」の掲示板です。真言宗豊山派の宗紋である「輪違い紋」が画かれています。二つの輪は、大日如来と、衆生を意味します。
本堂全体景観です。
天竺渡来石彫涅槃図
本堂の前に「天竺渡来石彫涅槃図」という巨大な石碑があります。この涅槃図は、奈良県壺阪寺から寄贈されたものです。多聞院の先々代の住職がかつて壷阪寺の住職を務めていた縁によるもののようです。
「天竺渡来石彫涅槃図由来」の石碑です。ここに至るまでの説明が刻まれています。
石彫涅槃図の全体景観です。
インドのデカン高原に産出されるシーラーの名石を使用し、インドの文化勲章受章者によって製作されたものです。
上部の釈迦涅槃図です。
下部の図です。
下部の中央の釈迦の苦行図です。
苦行の釈迦像、山帰釋尊(やまがえりしゃくそん)像で、釈迦の苦行生活を送っていたときのお姿です。浮彫ですが、立体感が出ています。
石彫涅槃図の横に「仏足石」が説明掲示板とともにあります。
今まで見た仏足石は、釈迦の足跡そのものでした。しかし、この仏足石は、足の裏の相をデフォルメ化したものと思われます。
石仏群
また、境内の左中央部に石仏が多数あります。その後ろに、東屋風の小奇麗な建物がありました。
石仏です。
不動明王像
地蔵菩薩像
そして、祠状の物に安置された菩薩像です。
三つの石仏も並んでいます。
菩薩像と童子の像です。
獅子に乗る文殊菩薩像です。
延命地蔵尊です。
境内の左手には、広い墓地があります。
御朱印を頂きに、寺務所に向かいます。2歳の女の子がいらっしゃる若い住職と奥さまが親切に対応頂きました。
庫裡は本堂と棟続きです。
所感
この多聞寺の他に、手前の妙高寺、隣の常栄寺、向かいの乗満寺と見て来ました。本当にこの界隈は、寺院の集合体でした。
どの寺院もそんなに広くありませんが、緑も多く境内も綺麗に整理され管理が行き届いています。宗派もそれぞれ違い、墓地を持っているので成り立っているのだと感心しました。
ただ、この界隈には独立の神社がありません。今迄の散策でも必ずと云っていいほど、寺院の傍には神社がありました。明治維新の前まで神仏習合で双方が成り立っていたのです。区画整理事業の際、都内各所から烏山寺町に集まるときに、神社は入ってなかったのでしょうか。
今回の多聞寺は、落ち着いた雰囲気の寺院でした。境内に涅槃図など多くの石像があるのが特色で、見応えがありました。御府内八十八ヶ所霊場3番札所、玉川八十八ヶ所霊場44番札所でもあります。
この烏山寺町には26寺院あるので、全てを拝観することは無理ですが、2,3興味深い寺院を見て回りたいと思います。
参考:世田谷区ホームページ
境内説明掲示板
おわり