東京都渋谷区 渋谷の歴史を伝える神社「金王八幡宮」

 東京都渋谷区の散策です。今年1月に鳩森八幡神社を参拝しましたが、渋谷区はそれ以来で、今回は、「金王(こんのう)八幡宮」です。JR渋谷駅から徒歩で数分です。

 明治通りに入り、「金王神社前」交差点を左に曲がりますと、表参道の大鳥居がそびえ立っています。黒系の落ち着いた色合いで、平成25年(2013)に竣工しました。

 

大鳥居を進み参道を行くと、金王八幡宮の二之鳥居、そして神門が見えます。

 

神門の石段の手前、基壇の上に建つ社号碑です。

 

神門

二之鳥居と神門(通称赤門)です。

 

 この「金王八幡宮」社殿及び門、渡り廊下は、渋谷区指定有形文化財です。また、和算の絵馬である「算額」3点と絵馬「大江山鬼退治之図」は、区の指定有形民俗文化財です、との説明掲示板があります。

 

 神門です。神門は江戸中期の建立と伝わりますが、明和六年(1769)と享和元年(1801)の二説があります。幾度かの修理を経て今日に至っており、江戸時代初期の建築様式で、都内でも代表的な建物の一つです。扁額の文字は、金王八幡宮

 

神門を抜けると、参道は真っ直ぐ社殿に向かっています。

 

 大都会の神社のわりに、境内は広く左側に境内社、神楽殿など、右側に御影堂、社務所などがあります。

境内左側


境内右側

 

手水舎

社殿に向かう前に、左側にある手水舎で身を清めます。

 

龍の口から竹が出て、そこから水が流れています。

 

社殿

江戸時代造営の社殿と後ろの高層ビルのバランスが見事に調和しています。 

 

社殿です。

 

御由緒

 金王八幡宮は、第73代堀河天皇の御代、寛治6年(1092)に鎮座いたしました。
桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で、秩父別当平武基は、源頼信による長元の乱(1028~1031)において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父妙見山武甲山)に納め、八幡宮と崇め奉りました。

 武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役(1083~1087)の源義家の軍に300騎余を従え一番で参向し、仙北金沢の柵(秋田県仙北郡金沢)を攻略します。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り、武蔵谷盛庄を賜りました。
 義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の日月旗を乞い求め、月旗をもってこの地に八幡宮を勧請しました。

 重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とし、渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれます。

 当八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称し、「渋谷金王丸」の名声により、金王八幡宮と称されるようになりました。

 

御祭神

 応神天皇(おうじんてんのう)
     別名:品陀和気命(ほんだわけのみこと)

 

慶長17年(1612)、春日局と青山忠俊の寄進によって社殿が造営されました。

 

社殿前の阿吽の狛犬です。

 

朱塗りの社殿に極彩色の彫刻が目立ちます。

 

 拝殿正面左右の窓のような狭間には、「漠」と「虎」が彫られ、獏は世の安寧、虎は正しい政への祈りの心が込められています。

 

金王桜

社殿の右手に金王桜です。

金王桜について、『金王神社社記』によれば、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、「鎌倉亀ケ谷の館」から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。

 

 一枝に一重と八重の花が入り混じって咲く大変珍しい桜で、長州緋桜という品種です。渋谷区指定天然記念物となっています。

 

拝殿を左側から撮影。右が金王桜です。

 

拝殿前の左側に「渋谷城  砦の石」が置かれています。

 

説明掲示板によりますと、

「この辺り一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館の跡で、東に鎌倉街道(現 八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数カ所に湧水があるという好条件を備えていました。
 しかし、渋谷城は、大永四年(1524)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦(現 品川区高輪付近)のとき、渋谷氏が交戦中だった北条軍の別働隊により襲われ、焼き払われてしまいました。」ということです。

 

 社殿前の左側に神楽殿があります。

渋谷に勤める人でしょうか、比較的若い方がこの前のベンチで休憩している光景があります。

 

御神木 シイノキ

 神門近くに戻って、すぐ右手に御神木があります。昭和の初期の落雷によって、抉り取られ洞になっていますが、力強く立派なシイノキです。

 

金王丸御影堂

 その近くに源義朝公、頼朝公御縁「金王丸御影堂」そして御祭神、「渋谷金王丸常光」と書かれた看板があります。

 

金王丸御影堂です。渋谷金王丸常光は、金王八幡宮の社号由来になっています。

 

 渋谷金王丸常光は、大変謎の多い人物だったようですが、どういう人物でしょうか。金王丸御影堂の説明掲示板があります。

それによりますと、

「平安末期、渋谷重家夫妻が当八幡宮に授児祈願を続けたところ、八幡神霊夢により栄治元年(1141)に金王丸が誕生しました。金王丸十七歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。
 また、頼朝とも親交が深く鎌倉開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(1185)、心ならずも義経の館に討ち入り勇ましい最期を遂げました。
 この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に遺した木造が納められています。更に金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」も八幡宮に保存されています。ということで、金王丸の木像は、3月最終土曜日の金王丸祭で特別開帳されるようです。

 

金王丸御影堂の前の阿吽の狛犬です。宝暦9年(1759)に奉納され、阿吽共に玉を持っています。

 

金王丸御影堂の正面です。

 

境内社

 境内の左側に2社境内社が並んでいます。先ず御嶽神社です。

 開運・商売繁盛の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広く集めており、御本社は、武州御嶽神社です。
 社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった「香雪神社」のものを移設したものです。

 

説明掲示板。

 

隣ガ玉造稲荷社です。元禄16年(1703)に創建されたお稲荷様です。

  創建された江戸中期、さらに明治の頃まではこの渋谷も農家が多く稲作が行われ、茶畑も広がっており、様々な人々の崇敬を集め、現在に至っています。

説明掲示板。

 

御朱印

 最後の御朱印です。社殿の右側にある社務所でパンフレットと共に頂きました。

社務所

 

御朱印とパンフレット

所感

 渋谷駅から数分と云う良い立地にあり、このような広い境内の歴史ある神社に驚きました。神門を抜けると、新しい現代の高層ビルをバックにした古い神社がパッと目に入りインパクトがあります。

 神門、社殿、金王桜そして金王丸御影堂など見所満載です。サラリーマン風の男性や若い女性など、結構引っ切り無しに参拝して帰ります。それだけ渋谷の総鎮守として古くから崇敬を集めていることが分かります。

 また、御祭神でもある「渋谷金王丸常光」の出生伝説、頼朝が金王丸を偲び植えたとされる「金王桜」など歴史的にも興味深いことが幾つもあります。

 渋谷の地名の由来は、『金王八幡神社社記』によると平安時代の終わり頃、領主「河崎平三重家」が京都在勤の時、禁中において盗賊「渋谷権介盛国」を搦め捕る手柄を立て、その功により土佐守に任じ渋谷を以て氏に命ぜられた。このことから、重家の領地であった谷盛庄が「渋谷」に変わったという説です。

 賊の名字を賜るとは、考えられませんが、当時の慣例によって領地の名称を名字とすることが多かったようです。このように金王八幡宮について、歴史を紐解くとまだまだ色々なことがあるようで興味深いですが、このへんで終わりとします。

 余韻に浸りながら神門を後にします。

 

参考資料:金王八幡宮ホームページ

     パンフレット

     境内掲示

                    おわり