身近な生きものの力  多肉植物と柴犬チロリの元気な姿

 今年の夏は猛烈に暑く、さすがに多肉植物も柴犬も元気がありませんでした。短い秋が過ぎ、季節が変わり、12月でも20℃をしばしば越える暖冬です。

 秋になって、多肉植物などの植木鉢は、家の日当たりの良い2階に入れます。

 

 多肉植物たち

 今年の冬は天気の良い日が続き、2階は日光が一杯で多肉植物が大きく成長しました。やはり太陽の光は多肉植物にとって生命力です。

「上海ローズ」です。これは寒さに強く、真冬でも戸外で大丈夫なようですが、葉が大きく成長しています。

夏の時の上海ローズ。小さい芽が幾つも出ています。

 

 現在の上海ローズ。小さい芽が大きくなりどれが親だか分かりません。

 

透明感のあるプニプニとした姿の「ハオルチア」です。

 

 ハオルチアは、直射日光を嫌うので注意が必要です。別の寄せ植えの「ハオルチア」を見ますといつの間にかもう一株増えていました。

 ハオルチアは、南アフリカからナミビア南部にかけて多くの種類があるそうです。先日、珍奇植物を南アフリカに見に行く番組が放映されていました。南アは光が強いためか、ハオルチアが土に埋もれたような感じで、葉が少ししか出ていません。植物もその環境に合わせ適応しているようで驚きました。

 

 その他の多肉植物で「福娘」です。夏に橙色の花が咲きましたが、厚い葉に勢いがあります。

 

グリーンネックレス」です。ツル性の多肉植物で、葉やツルを下に長く伸ばす植物です。葉に水を蓄える性質を持ち、丸い葉がぶら下がる姿が可愛いらしい。

 

セダム」です。セダムの種類は、たくさんあるようです。丸い小さな葉が次々と出て来ます。

 

エケベリア」という多肉植物です。エケベリアはベンケイソウ科エケベリア属の多肉植物で、メキシコなど中南米が原産です。まるで花びらのように広がる肉厚な葉が特徴です。これも一株増えていました。

 

 銀手毬(ギンテマリ)です。トゲのある小さなサボテンで強い光を好みます。硬めの白いとげに覆われ、造形が綺麗です。

 

似たような種類のサボテンですが、小さな株が出てきています。名前は分かりません。

 

「クラッスラ」という多肉植物です。南アフリカ、東アフリカ、マダガスカル原産で、これも種類が多く「金のなる木」も同じ仲間です。かわいく小さな花を咲かせるようですが、来年に期待です。

 

金のなる木。

 

そして、子宝弁慶草(コダカラベンケイソウ)という多肉植物です。名前の通り、葉の上の葉縁部分で沢山の子株を育てます。葉から落ちる子株でどんどん増え、直ぐに驚くほど大きくなります。

 

その他の多肉植物です。

 

 

庭の草木

 今年はモミジ、ドウダンツツジなど気温が高かったため紅葉するのが遅く、まだ残っています。

モミジ。

 

ドウダンツツジ

 

「万両」と「南天」が今年も紅い実をつけています。しかし、「千両」は、夏の暑さで全く実をつけませんでした。

万両。

 

南天

 

紅い実は、野鳥にとって冬の貴重な食料です。南天の実を食べる「ヒヨドリ」です。

 

 キンカンも黄色くなっています。

 

冬に咲く花、「椿」です。

 

ツワブキ」も咲いています。

 

 名前不明の植木鉢の花ですが、地植えしたところ、他は枯れたのですが、紫の花1輪だけ未だに咲いています。

 

柴犬14歳チロリの日常

 夏の暑さを乗り越え、涼しくなってから元気にしていますが、脳力、聴力、視力の衰え、緩慢な動作などは隠しようがありません。

玄関の段差は上がれません。

 

下に置いた餌は、食べにくそうです。

 

台の上に置きました。

 

食欲はあります。餌が無くなると、わたしの方へやって来ます。

 

そして、膝の上に乗り、餌を催促します。

 

いつもは、家の中をグルグル歩き回り、外を見るか、寝るかです。

外を見るチロリ。相変わらず、誰か人が通る度にワン、ワンと吠えています。

 

眠るチロちゃん

 

おわりに

 師走に入り、日本の政治、経済状況が不安定です。世界においても、見通せないウクライナ戦争そしてイスラエル、ガザの紛争。被害に遭うのは一般市民、子供たちで無残にも殺されていきます。国連もアメリカも中国も止めることは出来ません。止める手立ては無いのでしょうか。

 

 そんな世の中の厭な気持を吹き飛ばしてくれるのが、健気に生きる身近の生きものたちです。

多肉植物は、殆ど水やりはしていませんが、それでも光だけでもこの様に活き活きと成長する姿に驚き、チロリには、老いても健気に一生懸命生きる姿に癒されます。それでわたしも心が和み、健康も保たれ有難いことです。

尚、蛇足ながら、このタイトルは、はてなブログの新機能AIが考えてくれています。

                     以上

東京都中野区 石仏群と庚申塔の真言宗の寺院「実相院」

 中野区の散策の続きです。「新井薬師」、「新井天神北野神社」と参拝し、次の目的地の「実相院」を目指します。

 

 Google Mapsを見ながら住宅街の「妙正寺川」の新井橋を渡り北の方角に行きます。

 

実相院山門

 西武新宿線新井薬師駅の次、「沼袋駅」を過ぎると直ぐに実相院の山門が見えます。まだ新しく簡素な山門です。昭和56年、本堂とともに竣工されました。

 山門の隣の建屋(実相院如意ホール)に「輪違い」の寺紋が見えますが、真言宗豊山派の寺院であることが分かります。総本山は、奈良県桜井市にある長谷寺です。

 

 山門の横の寺号標です。如意山実相院と刻まれています。

実相院は、真言宗如意山実相院世尊寺が正式名称です。

 

境内へ

細長い参道ですが、正面に本堂です。

 

参道左右に石組が見えます。左側に多数の石仏が並んでいます。

 

参道の右側には、庫裡や木の陰で見えにくいですが、地蔵菩薩立像などがあります。

 

参道の石仏群

 参道の左側は、石組の上に石仏が並んでいます。

 

 山門の近い所にある舟形光背の「如意輪観音像」で、造立年元禄4年(1691)が刻まれています。

 

如意輪観音像は、もう一基あります。

 

馬頭観音の文字が刻まれています。上部が一部欠損しています。

 

聖観音菩薩立像です。享保16年(1731) 造立。

 

大日如来坐像で、 元禄15年(1702)と刻まれています。上部の梵字は、大日如来を表す「バン」で、法界定印(ほっかいじょういん)を結んでいます。

 

参道の右側にある地蔵立像で、天和2年(1682)の造立です。

 

これらの石仏が本堂まで続いています。

 

本堂

 本堂です。大戦にて被災しましたが、戦後の早い段階で復興し、現在の本堂は、昭和56年に落慶し、現在に至ります。

 

実相院の縁起

 実相院の創建年代は不詳ですが、正平7年(1352)に新田一族が武蔵に足利軍と戦ったとき、 新田六郎左衛門政義の三男、矢島三郎信氏の子孫である矢島内匠、同図書が戦いに破れ、結城氏一族とともに沼袋村に来て一家屋を建立したのが起源であると伝わっています。

 現在でも矢島姓を名乗る檀信徒が半数以上を占め、別名「矢島寺」とも呼ばれています。(実相院公式サイトより抜粋)

 

本堂の近くの修行大師様です。

 

納骨堂の十一面観音像です。

 

隣の石塔。

 

墓所入口の庚申塔など多数の石仏

 そして、本堂の左側(西)に墓所が広がっています。墓所の入口の両側に石仏が並んでいます。

六地蔵様など墓所入口右側の石仏です。

 

右側入口近くの南向きに、不動明王立像です。

 

その左に六地蔵菩薩立像が並びます。



 

更に六地蔵の左側に庚申塔が並びます。

 

六地蔵の左側の庚申塔です。六臂の青面金剛立像で、その下に一邪鬼、三猿が見えます。

 

その左に 智拳印を結ぶ、大日如来坐像です。

 

これらの石仏の向かい側に、庚申塔など五基の石塔が並んでいます。

 

 左端の庚申塔は、笠付角柱型で、下部に三猿を彫る「三猿庚申塔」です。その右は、勢至菩薩立像で、同じく笠付角柱型です。

 

その右は六臂の青面金剛立像の庚申塔で、その下に一邪鬼、三猿が見えます。

 

その右の庚申塔は、六臂の青面金剛立像でその下に三猿のみいます。

 

右端の庚申塔です。こちらも同じく青面金剛立像で邪鬼がいなく、三猿のみです。

 

御朱印

最後に御朱印です。本堂右隣の庫裡から頂きました。

 

おわりに

 今回参拝した実相院は、住宅街の中にあり、小さな寺院でした。どんな小さな寺院でも何か特色があるものです。この寺院は、境内の参道にランダムに置かれた石仏と墓所入口の庚申塔が見応えがあります。いずれも江戸時代のものと思われますが、出来栄えが素晴らしいです。戦災で苦労したと思われますが、今後もこれらの文化財を維持していって欲しいものです。

 お寺の方にはお忙しい中、丁寧に対応して頂きました。有難うございました。

                     以上

東京都中野区 新しい拝殿が美しい、菅原道真公と撫で牛「新井天神北野神社」

 前回、中野区の散策で、新井薬師として有名な「新井薬師梅照院」を訪問しましたが、この西武新宿線沿いに神社、寺院が数多くあります。

今回は、その辺りを巡りますが、新井薬師から新井薬師公園を挟んで直ぐ近くにある「新井天神北野神社」です。旧別当寺の「新井薬師梅照院」との関係が深いです。

 

御由緒

 新井一円の総鎮守である北野神社は、新井天神と称し、文武両道の神とされる菅原道真公、また食物を司る保食神の二柱をお祀りしております。

北野神社の創建年代は明らかではありませんが、古くは天満宮と称し、天正年間(1573~1592)、新井薬師の開祖である沙門行春が建立したとも、それ以前よりこの地の鎮守社であったとも言われています。

 境内には「新井」という地名の由来ともなった井戸が現在も使用されています。(北野神社公式サイトより)

御祭神 

 菅原道真公(天神様)と保食神の二柱

 

新井薬師から程なく、中野通りの向こう側に北野神社の鳥居が見えます。

 

社号標には「北野神社」の文字が刻まれています。

 

鳥居に社紋があり、新井薬師梅照院と同じ「梅鉢紋」です。扁額の文字は、「新井天神」。

 

鳥居から境内へ

 鳥居から一礼して入ります。この日は金曜で、明日からの休日に備え、露店の準備をしているようです。

 

参道を行くと、直ぐに阿吽の狛犬が構えています。大正15年(1926)に奉納されたものです。

 

左手に龍の手水舎です。

 

 手水舎の隣に「撫で牛」です。自分の身体の病んだ部分を撫でたあと、その牛の身体の同じ箇所を撫でると、牛に移って病気が治るという俗信です。びんずる尊像と同じですね。

 

 参道の途中に、また阿吽の狛犬がいます。昭和23年(1948)奉納の狛犬で、見た目は古そうですが、比較的新しい昭和のものです。

 

参道を進むと、境内の左側には、朱色の稲荷神社などの境内社が並びます。

 

境内の右側には、神楽殿社務所などがあります。

 

簡素で新しい令和の拝殿

 そして、正面にまだ新しい拝殿です。令和の御大典奉祝事業として新築され、3年前に竣工式・遷座祭が行われました。

 

扁額は北野神社です。

 

社殿の右側に神楽殿があります。

 

境内社

 参道の左側に、境内社が並んでいます。入口近くから、先ず小さな祠の御嶽神社です。

 

 その右隣に稲荷神社です。御祭神は、倉稲魂命(うがのみたま)、稲のみたまの神で、豊穣・万民豊楽の神霊です。

 

祠の前のお狐様です。

 

 御由緒の説明掲示板もあります。元々は江戸時代後期に板倉勝政氏により市ヶ谷の庭内に守護神として鎮守されたのが始まりとのことです。

 

その右側に神輿殿があります。

 

そして、右側に大鳥神社です。昭和28年(1953)に大阪府堺市より「大鳥大社」を勧請しました。御祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)です。




 

区指定有形文化財「力石」

 参道の左手に、13個の力石が並べられています。昔、若者たちが力くらべに使ったものです。

 祭りの日、若者たちは大きな石をかかげて、その力を競い合い、持ち上げた石の重量や姓名を刻んでいます。

 

また、記念碑などが置かれた所もあります。

 

御朱印

 最後に、御朱印です。社務所にて頂きました。御朱印は「北野神社」の朱印と梅鉢紋が画かれています。

 

おわりに

 豊かな水に恵まれた新井の村は、妙正寺川の水害からの守護を天神様に祈り、すべての食物の御親である保食神に豊作を祈願したと云います。

新井薬師梅照院」が旧別当寺の関係にあり新井薬師とともに、新井村の鎮守として崇敬を集めたことがよく分かりました。

 そして、令和の御大典奉祝事業により拝殿も新しくなり、驚きました。今まで観てきた拝殿の概念を打ち破ったような簡素な美しさがありました。

 梅、天神様、菅原道真公、撫で牛、そして梅鉢紋を意識した13個の力石の配置と「天神信仰」が満ち溢れ、地域から大切にされているのが伝わる神社であると感じました。

                    以上

東京都中野区 眼病平癒の薬師の水「新井薬師 梅照院」

 今回は、中野区の散策です。中央線の北側、西武新宿線沿線で新井薬師として有名な「梅照院(ばいしょういん)」という真言宗豊山派の寺院です。

 

参道入口

 西武新宿線新井薬師駅から数分、参道入口です。寺号標に真言宗豊山派 「新井山 梅照院 博光謹書」と刻まれています。博光謹書とは、書家の石飛博光氏の書でしょうか。

 

 右側にも寺号標があり、こちらには、「新東京百景 新井薬師 東京都知事鈴木俊一書」と刻まれています。当時の東京都知事鈴木俊一氏が書かれたのだと思います。

 

山門へと真っ直ぐ延びる参道です。

 

参道途中の山門前、右側に区登録有形文化財の本堂再建供養塔があります。

 

山門から境内へ

山門です。参道は、真っ直ぐ本堂に繋がっています。

 

 山門から境内に入ると、参道の左側に、薬師霊堂とその前の修行大師像、聖観音像など、右側に不動堂、水屋、鐘楼堂などがあります。

参道の左側。

 

参道の右側

 

本堂

そして、本堂ですが、本堂前に大香炉があります。

 

 本堂で参拝する前に、右にある手水舎で身を清めようと思いますが、コロナ禍からでしょうか、手水鉢に柄杓がありません。蓮の葉の手水鉢は珍しいです。

 

大香炉から本堂です。

 

 本堂の扁額は「瑠璃殿」。寺紋は「梅鉢紋」です。

 

 正式名称を新井山梅照院薬王寺(しんせいざんばいしょういんやくおうじ)といいます。「薬師如来」と「如意輪観音」の二仏一体の御本尊により、名称も一体となし、寺院と愛称とが合わさり、「新井薬師梅照院」となりました。

 

本堂の内陣。(パンフレットより)

 

薬師如来」と「如意輪観音」の二仏一体の御本尊。(パンフレットより)

二仏一体の御本尊は秘仏のため、御開帳は寅年に限り行われるようですが、次は数年後です。通常はお前立が拝されます。

 

御由緒

 鎌倉末期、相模国(神奈川県)から行春という沙門(僧)が新井の里を訪れ、清水の湧き出るこの地こそ、真言密教の修行道場にふさわしいと感じて草庵を結びました。
 この草庵は、徳川初期頃になると廃寺同然に荒れ果てましたが、庭の梅の古木から光が出るという現象が夜ごと起こり、天正14年(1586)、その梅の木の穴から新田家ゆかりの御尊像が発見されました。中野郷新井の郷士であり、元新田義興の臣、窪寺某が太田金山城に祀られていた尊像であることを確認し、薬師堂を建立したのが梅照院のはじまりです。

本堂の全体の景観です。

 

不動堂

 山門入ってすぐ右側にあるのが「不動堂」です。

 

不動堂の正面です。

 

 お堂の右側に「お願い地蔵尊」があります。体の悪いところと同じ場所を祈願しながら水で洗うと治してくれるといわれ、信仰を集めるお地蔵さまです。

 

「お願い地蔵尊」の前には、念願成就を祈念して、小さな可愛らしい「お願い地蔵さん」が並んでいます。

 

お堂の左側の水子地蔵尊です。

 

そして、水子地蔵尊の奥に立派な鐘楼堂があります。

 

薬師霊堂

参道の左側、不動堂の向かいにある「薬師霊堂」です。二重の塔になっています。

 

薬師霊堂正面です。扁額は「薬師霊堂」です。

 

霊堂前には、「修行大師像」と蓮の花を手にした「聖観音像」があります。

 

「大悲殿」前の「白龍権現水」

 本堂の右横の通路を奥に行くと「大悲殿」という大きな建屋があります。その建物の前に名水白龍権現水」があります。

大悲殿です。

 

 古文書「新井埜草別調」によると、新井の地名の由来は「名水沸き出でたる故に村名を新井と名づく」とあるとされ、この地の随所に名水が湧き出ていたと伝えられています。

 直ぐ近くの新井薬師公園の瓢箪池も昔は水垢離場として使われ、安置された不動明王を白蛇が守護したといわれます。

 この冷泉は、公園造成後にその湧出が絶えましたが、昭和35年不動明王堂が建立され、白龍権現として祀られました。すると、地下2m程のところに大井戸が発見され、権現の導きであったと伝えられています。
白竜権現水は、対に絡まった龍の口から流れ落ちています。

 

ここ以外にも境内の手水舎の後ろに「ポンプ式の井戸」があります。眼病平癒の薬師の水は、次々と水を汲みに来る人がいるようです。

 

聖徳太子

 大悲殿の向かい側に「聖徳太子像」があります。聖徳太子御年16歳のお姿だそうです。説明掲示板があります。

 

 境内には西門があります。

 

門の左内側に、たくさんの石像があります。

無縁仏の三界万霊墓。

 

六地蔵

 

御朱印

最後に御朱印です。御朱印は、本堂右隣の授与所からパンフレットと共に頂きました。

 

おわりに

 「新井薬師」として有名な寺院だけあって、平日ではありましたが、参拝者は結構多かったです。新井という地名が、どこを掘っても良質の水が出て、新しい井戸を作れる地のようです。

 江戸幕府2代将軍秀忠の五女和子が、当寺の薬師如来に眼病平癒を祈願したところ、忽ち回復したとされます。特に眼病治癒のご利益に関して有名になったとされますから、一般に開放されている、白竜権現水を汲みに来る方が多いのも頷けます。

 見所満載の寺院で、毎月8のつく日(8日、18日、28日)は縁日が開催され、本堂も見学できるようで、また、梅照院の名の通り、梅の咲く時期に再度訪れたいものです。

                    以上

東京都新宿区 新宿総鎮守の「十二社熊野神社」

 今回は、新宿駅西口より10分程度の所にある「十二社(じゅうにそう)熊野神社」です。都庁の直ぐ北にあり新宿中央公園に面しています。

熊野神社の案内(「十二社熊野神社文化財」のパンフレットより)

御由緒と御祭神

 十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます。
 鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
 九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。
 江戸時代には、「熊野十二所権現社」と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。また、享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は、江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。
 明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在、新宿の総鎮守となっています。(十二社熊野神社公式サイトより抜粋)

 

御祭神:櫛御気野大神(くしみけぬのおおかみ)  

    伊耶那美大神(いざなみのおおかみ)

 江戸時代に、「熊野十二所権現社」と呼ばれたことに因み、この付近一帯は「十二所」と呼ばれたが、いつしかこれが転訛し「十二社(じゅうにそう)」と呼ばれる事となります。

 

 熊野神社を創建した鈴木九郎氏については、以前、出家して創建した「成願寺(じょうがんじ)」の中で記述しています。

中野区の寺社散策 中野長者伝説の寺院「成願寺」 - クマケア治療院日記 (hatenablog.com)

 

熊野神社の鳥居

 西新宿の十二社通り沿いが表参道で、社号碑は、「熊野神社」です。

 

坂を上ると鳥居です。

 

一礼して鳥居をくぐると、正面に社殿です。

 

 社殿の手前左手に手水舎があります。身を清めて社殿に向かいます。

 

重厚な社殿

 重厚感のある拝殿で、昭和九年(1934)に造営され、戦火を免れ良い状態で維持しています。

 

拝殿前の阿吽の狛犬です。

 

都心の重厚な美しい社殿が、背後の高層ビルと結構調和しています。

 

拝殿正面です。

 

扁額の文字は、熊野神社、社紋は左三つ巴です。

 

熊野神社案内図」です。(「十二社熊野神社文化財」のパンフレットより)

 

熊野神社文化財

 拝殿の前に、区指定の有形文化財の「七人役者図絵巻」と「式三番奉納額」の説明掲示板があります。

二つの文化財は、拝殿内に掲げられているようです。

七人役者図絵巻。(パンフレットより)

式三番奉納額。(パンフレットより)

 

社殿の左側の景観です。

 

 社殿の右側ですが、「大田南畝(おおたなんぼ)の水鉢」という案内があり、奥に区指定有形文化財の文政3年(1820)に奉納された水鉢があります。

 

社殿の右側の境内社

 社殿の右側には境内社がいくつかあります。

 

社殿の直ぐ右側にあるのが大鳥神社です。

 

大鳥神社の前の阿吽の狛犬は、享保十二年(1727)に奉納されたもので、区登録有形民俗文化財に指定されています。

 

珍しくお腹の下がくり抜かずに残され、年紀や奉納銘が刻まれています。



その説明掲示板です。

 

その右側の胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)神社です。

 

神社の前、左右の狛狐さんたちです。

 

その向かい側に小さな神池と弁天社があります。

江戸時代に、「十二社池」と呼ばれる用水溜があったようで、その名残でしょうか。

 

参道に戻って、境内からも都庁が見えます。

 

鳥居を入って左側に神輿庫と神楽殿があります。

 

石碑が並ぶ境内

 鳥居を入って直ぐ右側の十二社の碑などの石碑です

 

「ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑です」、との説明掲示板があります。

 

十二社の碑。

 

その他境内には多くの石碑があります。

 

 そして、新宿中央公園側にも小さな神門が用意されています。社号碑に「郷社 熊野神社」の文字が刻まれています。

 

御朱印

最後に御朱印です。社務所で頂きました。

御朱印の右上に八咫烏(やたがらす)のスタンプが入っています。八咫烏とは、『古事記』と『日本書紀』に登場するカラスで、神武天皇を熊野から大和に先導したとされ、熊野信仰の神使とされています。

 

十二社熊野神社文化財のパンフレットも頂きました。

 

おわりに

 新宿の都庁には、パスポートや運転免許の更新などで何度も行っていますが、その隣にこのような広い境内の神社があるとは、思いませんでした。

しかも、この熊野神社の創建した方が、中野長者と呼ばれる鈴木九郎氏でした。私は今年の4月に中野区の散策で成願寺を訪れましたが、ここも開基である方が、鈴木九郎氏でお墓に参ったところでした。

 成願寺、そして熊野神社の建立には色々ドラマがあったようですが、鈴木九郎氏は、本当に信心深く素晴らしい方だったと感じます。

 また、「十二社と熊野神社の歴史」を調べると、この辺りは江戸時代、池、川があり「十二社の滝」が流れる景勝地だったようで、浮世絵にも描かれています。

名所江戸百景 「角筈熊野十二社俗称十二そう」

 

江戸名所図会「十二社の滝」 二代目歌川広重 

文久2年(1862)

二社熊野神社文化財のパンフレットより

 現在は、新宿新都心の高層ビル街の一角の公園に隣接しており、池や滝は埋められ遠い昔の話ですが、新宿の歴史に出会える新宿の総鎮守「熊野神社」でした。

                     おわり

東京都渋谷区 都心の貴重な鎮守の森「渋谷氷川神社」

 今回も渋谷区の散策が続きます。渋谷駅近くの「金王八幡宮」、「豊栄稲荷神社」を見て来ましたが、そこから数分南東に行くと「渋谷氷川神社」があります。

 東側は、國學院大學キャンパスです。ここも都心の渋谷にありながら緑豊かな貴重な鎮守の森です。

 

御由緒

 正確な創建時期は不明ですが、江戸七氷川の一つで、渋谷区最古の神社とされています。創始は、慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとあります。

 境内には江戸郊外三大相撲の一つ金王相撲の相撲場の跡があります。(東京都神社庁より)

御祭神素盞鳴尊すさのおのみこと)

    稲田姫命(くしなだひめのみこと)

御利益:恋愛成就、縁結び、出世開運、厄除

 

 社号碑は、正式名称の単に氷川神社です。他と区別するため「渋谷氷川神社と呼ばれています。

 

一之鳥居から二之鳥居へ

 一之鳥居です。扁額はよく読めませんが氷川神社のようです。

 

参道の石段が続きます。

 

石段の先に、更に石段があり、二之鳥居です。

 

 二之鳥居の前に、阿吽の狛犬です。昭和15年(1940)に奉納されています。

 

氷川神社金王相撲跡

 石段の途中ですが、右側に「氷川の杜公園」という看板があり、傍に「氷川神社金王相撲跡」という教育委員会の説明掲示板があります。

 

 参道の途中から右側に下って行くと、相撲の土俵があります。

 渋谷氷川神社の「金王相撲」は、大井鹿島神社世田谷八幡宮とともに「江戸郊外三大相撲」と呼ばれて有名でした。ここは児童公園になっていて、その一画に相撲場跡として土俵が存在しています。

 金王相撲の名称は、金王八幡宮に祀られている「渋谷金王丸常光」に因んだものと思われます。

 

参道に戻って、社殿の方へ行きます。参道の左側にある手水舎です。ここで心身を清めて社殿に向かいます。

 

 ダークブラウンの重厚感のある社殿です。昭和13年(1938)に改築、1945年の戦禍を免れ、その後の改修を経て、現在の姿を維持しています。

 

拝殿正面です。扁額の文字は、氷川神社、社紋は左三つ巴。

 

社殿全体景観です。青空と高層ビルに映えています。

 

社殿前の左側の神楽殿です。

 

境内社

社殿の右側に「本殿御敷地舊趾」の石碑と境内社があります。

 

「本殿御敷地舊(きゅう)趾」の石碑で、かつてこの位置に社殿が置かれていたようです。 

 

その左側の境内社は、秋葉神社です。

 

前に一部破損していますが向き合った姿が面白い狛犬がいます。

 

その直ぐ左側に「百度石」と「八幡神社」です。

 

百度石。

 

八幡神社です。前に同じく狛犬がいますが、右側の狛犬は破損しています。

 

手水舎の近くに、稲荷神社と厳島神社があります。

 

稲荷神社です。

 

その前には神狐像が左右に3基ずつ、様々な表情をしています。

 

この稲荷社の前に、小さくて可愛らしい狛犬もいます。額のひび割れ何とか修復して欲しいものです。

 

その左手には、厳島神社です。

 

祠の左右にそれぞれ阿吽の狛犬、4基が置かれています。

 

特に、この阿の狛犬の顔の表情、すっきりとした足、苔むした姿が素晴らしく感じます。

 

渋谷氷川神社の北側にも参道があります。

鳥居です。扁額は氷川神社

 

手前に、しっかりした造りの阿吽の狛犬

 

御朱印

 最後に御朱印ですが、社務所にて頂きました。御朱印は、高齢の女性が丁寧に書いて下さいました。イチョウ、椿、左三つ巴もバランスがとれています。

 

 

所感

 渋谷氷川神社は、都心の渋谷にありながら別世界なような光景がそこにはありました。境内は、緑豊かで静かですが、犬を連れて散歩する人、参道を通学路として利用する人など気持ちの良い空間があり、地域の鎮守として親しまれていることが分かります。

 秋葉神社、稲荷神社など境内社が多く、それを守る狛犬、狛狐さんの造形美が素晴らしく感じます。破損も激しくなりますが今後も守っていって欲しいものです。

                    おわり

東京都渋谷区にある稲荷神社、庚申塔群、朱塗りの社殿の「豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)」

 東京都渋谷区の散策が続きます。前回は、渋谷駅近くの「金王八幡宮」でしたが、今回は、その隣にある豊栄稲荷神社です。

東向きの参道入口です。社号碑は、金王八幡宮と同じく基壇の上に建っています。

 

石段の先の石の鳥居です。扁額の文字は、「豊栄稲荷神社」。

 

 鳥居前に「百度石」があり、参道の左に手水舎、真っ直ぐ奥に数多くの奉納鳥居が連なります。その先が社殿です。

 

御由緒

 創建は、鎌倉時代の頃、渋谷八幡宮(現金王八幡宮)をお祀りした渋谷氏の祖河崎土佐守基家の曾孫高重によって祀られたと伝えられています。豊栄稲荷神社は、元渋谷川の辺、渋谷駅の近くにありました。

 渋谷川が渋谷城の壕に利用されており、江戸時代文化の頃までは「堀ノ外稲荷」、その後「田中稲荷」と称せられていました。

昭和27年道玄坂上の「豐澤稲荷神社」が合祀され、昭和36年、東京都の区画整理事業により、現在地に移り、「豊榮稲荷神社」となりました。

御祭神:田中稲荷大神、豊沢稲荷大神

 

境内へ

 石鳥居の直ぐ左手に手水舎があります。コロナ禍から使われていないようですが、ここも朱塗りの舎です。

 

そして、社殿まで何基も連なる朱塗りの奉納鳥居です。鳥居は皇紀2650年(1990)を祝って奉納されたものです。

 

社殿

 奉納鳥居を抜けると朱塗りの鮮やかな社殿です。社殿は昭和47年(1972)に造営されたものです。

 

社殿の前の狛狐さんです。くわえているものは、玉と鍵でしょうか。

 

社殿の正面です。扁額は「豊栄稲荷神社」です。

 

 社殿の内部にも扁額が掲げられています。「豊澤稲荷大神、田中稲荷大神」の扁額で、二社が合祀された歴史を伝えています。

 

社殿内部の下の方に社紋の稲紋が見えます。

 

庚申塔

 庚申信仰は、江戸時代に庶民の娯楽を兼ねて流行し、それによって各地に庚申塔が建てられましたが、ここにも13基の庚申塔があります。その多くが江戸時代中期のもので、元田中稲荷神社の境内にあった庚申塔を移転したものです。渋谷区教育委員会の説明掲示板と「庚申塔略記」の碑です。

 

境内の右側の庚申塔群です。この様に多数の庚申塔が並んでいるのは珍しいです。

 

三猿、六臂の金剛像などの庚申塔が見られます。

 

 境内の左手には「藏脩館」という建物が建っています。昭和50年(1975)に建てられた、道場を中心とする研修道場です。

 

御朱印

 御朱印は本務社「金王八幡宮」の社務所にて頂きました。「豊栄稲荷神社の記」というパンフレットも頂きました。

 

所感

 わたしは、この神社の存在すら知らず、金王八幡宮参拝の帰りに直ぐ隣にあったので寄りました。この神社は、小さい神社で、金王八幡宮と比べても参拝者も殆どいませんでした。

 しかし、稲荷神社らしく社殿、奉納鳥居、手水舎などが朱塗りで、兼務社の扱いながらそれなりに目立って、存在感がある神社でした。

 創建は鎌倉時代、渋谷駅の近くにあり江戸時代文化の頃までは「堀ノ外稲荷」、その後「田中稲荷」と称し、また川の端にあったので「川端稲荷」とも呼ばれていたそうです。

そして、その後、道玄坂の豊澤稲荷社を合祀し、昭和36年に現在地に移り「豊栄稲荷神社」となったという、まさに、渋谷の稲荷信仰、歴史を感じさせる神社でした。

 

参考資料:パンフレット「豊栄稲荷神社の記」

     境内説明掲示

                   おわり