東京都中野区 真言宗豊山派「禅定院」自然と宗教の調和

 中野区の西武新宿線沿線、沼袋駅近辺の散策が続きます。

この辺は、寺社が多数あります。今回は、真言宗豊山派の寺院「禅定院(ぜんじょういん)」です。

院号(寺院名):禅定院(ぜんじょういん)

山号:瑠璃光山

・寺号:薬王寺

・宗派:真言宗豊山派

・札所;御府内八十八ヵ所霊場 第四十八番
    豊島八十八ヵ所霊場 第四十八番

 

禅定院の縁起

 禅定院は、南北朝時代の中期、貞治元年(1362)法印恵尊が開基となり創建したと伝えられる寺院です。旧上沼袋村の伊藤家とその一族の菩提寺としての特色を持っていたことから、「伊藤寺」とも呼ばれていました。

 

山門

 戦災を唯一逃れた山門(大正期)、右側に寺号標です。

 

扁額の文字は、「瑠璃光山」。

 

山門より入ると、右側に石像、石碑が並んでいます。

 

山門の直ぐ右手に「六地蔵」。

 

イチョウの木

六地蔵の隣が、存在感のある樹齢600年とされる大イチョウの木です。

 

 その隣に、石碑、石塔が並んでいます。

 

その中に3猿の庚申塔地蔵尊像があります。

 

本堂

 そして、本堂です。扁額が梵字で書かれていますが、初めて見ました。どういう意味か詳しく聞いてみたいですが。

寺紋の「庵に木瓜(いおりにもっこう)紋」が本堂の扉に付いています。

 

 本堂内陣です。御本尊は、不動明王です。暗くてよく見えませんが。上部中央に真言宗豊山派の「輪違い紋」が見えます。両脇に弘法大師の坐像です。

 

御本尊の不動明王立像(南北朝期の作)です。

(禅定院公式サイトより)

 

薬師如来坐像」も内陣脇に安置しているようですが、気が付きませんでした。両脇侍の月光、日光菩薩も坐像です。

(禅定院公式サイトより)

 草創期の御本尊は、薬師瑠璃光如来であり、山号と寺号はこのことに由来しています。現在の御本尊は、鎌倉時代後期の作とされる不動明王立像です。

(禅定院公式サイトより)

 

 本堂前に、弘法大師1150年御遠忌を記念して制作された「弘法大師像」です。

 

弁天堂と蓮池

 境内に「弁天堂」があります。堂内には弁財天、大黒天、毘沙門天を安置されています。

 

 また、境内には「蓮池」があります。

その周りは、春になると牡丹の花が綺麗に咲くようで、牡丹の名所といわれています。

 

 他に水路もあり、錦鯉が華麗に泳いでいました。

 

 尚、「百観音明治寺」に近い西側にも門があります。こちらの扁額の文字は「禅定院」です。

 

御朱印

 最後に御朱印です。寺務所より、「本日は御参拝いただきありがとうございます」、との説明書きと共に頂きました。

おわりに

 境内は、それ程広くはないのですが、蓮池、水路に錦鯉が泳ぐなど、自然豊かな感じのする寺院でした。またシンボルの大イチョウの木、本堂の扁額が梵字などユニークな面もある寺院で、春の牡丹の季節に、自然と宗教が調和されたような独特な魅力のあるこの寺院にまた来ようと思っています。

                     以上

東京都中野区 太田道灌ゆかりの神社「沼袋氷川神社」

 中野区の散策の続きで、西武新宿線沼袋駅沿い、数分の所にある「沼袋氷川神社」です。

 

御由緒

 創建年代は不詳ですが、正平年間(1346~1370)に、大宮氷川神社の御分霊をいただいて当地に奉祀したと云います。文明9年(1477)太田道灌が、江古田ヶ原・沼袋の戦いの際に、沼袋氷川神社に本陣を置き戦勝を祈願しました。その際に杉を献植したと云われており、今でも「道灌杉の跡」が残っています。

御祭神 

 須佐之男命(すさのおのみこと)

 御利益:厄除け 安産 子育て

 

鳥居から境内へ

 玉垣に囲われており、広い境内が伺えます。

 

 神域への入口となる表参道の「大鳥居」です。一揖して入ります。手前右に社号標です。

 

石段の上の向こうに二之鳥居です。

 

 真っ直ぐ行くと社殿ですが、その前に「子育て狛犬」があります。文久四年(1864)に奉納されています。

 子供を抱いてあやしている珍しい狛犬です。3回撫でるとお産が軽くなり、子育てが順調に進むと言い伝えられています。安産祈願・お宮参りで来る方が多いようです。

 

美しい社殿

 右手に手水舎です。令和元年に改修しています。参拝の前に、心身を清め社殿に進みます。

 

社殿です。平成3年に御造営されました。

 

扁額の文字は、「氷川神社」と揮毫した宮司の名前が書かれています。社紋は、左三つ巴です。

 

木鼻に見事な獅子の彫り物があります。

 

社殿の全体景観。

 

「三本願い松」と「道灌杉」

社殿の左側に、御神木としてそびえ立つ松の木があります。

「三本願い松」と呼ばれ、古来より「悪しきことはスギ去れ、願い叶うをマツ」と云い、参拝者の信仰を集めています。

 

 そして、「道灌杉」です。文明9年(1477)、太田道灌が戦勝を祈願して社頭に杉一本を献植し、のちに「道灌杉」と呼ばれます。現在は惜しくもその跡を残すのみとなっています。

 

裏参道の大鳥居と境内社

 社殿の左端にも大きな鳥居が立っています。裏参道の大鳥居です。

 

 この鳥居から入ると、左側に境内社が並んでいます。

左から、病気平癒の神などを祀る「天王社」。

 

その右隣に五穀豊穣・商売繁盛の神を祀る「稲荷神社」。

 

そして、縁結び・知恵の神を祀る「御嶽神社」です。

 

境内社の向かい側に、奉納舞踊やお囃子などが披露される「神楽殿」があります。

 

 表参道の左側に「力石」です。よく神社に見受けられますが、昔、若者たちが力比べに使ったもののようです。

 

中野七福神

 表参道の二之鳥居の直ぐ左側へ行くと、「七福神入口」の看板があります。

 

 平成21年、天皇陛下御即位20年、天皇皇后両陛下御成婚50年を記念して奉齋されました。

 

御朱印

 最後に、御朱印です。授与所にて頂きました。

パンフレットも頂きました。

 

おわりに

 沼袋氷川神社は、境内も広く綺麗に整えていると感じます。境内の整備も進められており、社殿は平成3年に御造営され、平成21年に整備された「中野七福神」など数多く整備されています。地域から大切にされているのが伝わる神社であることが分かります。

 頂いた小パンフレットにも、大正時代から旧野方村の総鎮守として信仰され、産土神として生涯にわたり守護する神様という事も書かれており、それも頷けます。

                    以上

東京都中野区沼袋 「百観音明治寺」の霊場巡り 180体の観音像

 昨年の暮れに、中野区の寺社の散策をしましたが、未だ記述していない散策の紹介です。西武新宿線の「沼袋駅」近辺、真言宗東寺派の「百観音明治寺」があります。

 

百観音明治寺の縁起

 明治5年(1912)に明治天皇の平癒を祈るため、榮照法尼によって観音菩薩石像の建立されたのが始まりです。しかし明治天皇は、観音開眼を待たずに崩御されます。

 その後、一大観音霊場を築きたいと呼びかけたところ、多くの賛同者が現われ、大正5年(1916)に百観音が整いました。翌年には本堂も完成します。そして、関東大震災、大戦を経て観音像の建立は、その後も続き、現在では180体あまりの観音像が境内に建立されています。

 

山門から境内へ

 沼袋駅から北の方向に、数分歩くと山門が見えます。寺院には見えない、近代的な新しい山門です。

 

右側の門に「百観音明治寺」の寺号標があります。

 

境内に入ると右側が、「百観音公園」になっています。

 

 中野区からの看板があり、この公園は明治寺の御好意によりお借りして開設している旨の「お願い」があります。

 

公園の中に像みたいな石造りの滑り台があります。 

 元々は鐘楼があったのですが、鐘が太平洋戦争の際に供出され、その台座を利用して滑り台としたようです。

 

本堂

境内の中央に、大きなイチョウの木があり、その向こうに本堂があります。

 

本堂正面です。扁額ではなく看板があり、近代的でシンプルな感じの本堂です。

 

本堂の内陣です。

 

如意輪観音

御本尊は、「如意輪観音」です。

 この寺院の如意輪観音は、六臂の像で右足を立膝にして、左足の裏に右足をのせる「輪王座」にて座しています。  

 

本堂の入口に本尊「如意輪観音」と「聖観音」の御真言マントラ)が書かれています。

 

音霊

 本堂参拝の後に、本堂の東側にある「観音霊場」が広がっていますので、ここも参拝します。自由に入って良いようです。

 この「観音霊場」は、近畿の西国三十三観音、関東一円の坂東三十三観音、そして秩父の三十四観音、合わせて百の観音様の「写し霊場」です。180体あまりの観音像が建立されているようです。

 

音霊場の西側に永代供養墓の多宝塔があります。

 

玉井稲荷大明神

 境内の北側にもう一つ門がありますが、その手前に「玉井稲荷大明神」というお稲荷様があります。

 

 この寺院の開基、榮照法尼様が寺の鎮守として生地である埼玉県熊谷の玉井より勧請した稲荷大明神です。

 

祠の前のお狐様ですが、少し不気味な表情です。

 

御朱印

 最後に御朱印です。本堂左の寺務所より頂きました。

 

御朱印について、という説明書きも頂きました。

 

おわりに

 西国三十三所だけでも、京都府滋賀県大阪府奈良県兵庫県和歌山県岐阜県に観音霊場が点在しています。この「写し霊場」は、一か所で「百観音巡り」できることは素晴らしいことだと思いました。

境内に「百観音明治寺行事のご案内」の看板があります。

観音経読誦会(かんのんぎょうどくじゅかい)、写経、座禅の会を定期的に行っているようです。

 この百観音明治寺は、境内の一部を区の公園に貸し出したり、このような会を行ったり、地元に密着した活動をしていると感じました。

                  以上

港区新橋の「日比谷神社」 今も残る「鯖稲荷」

 港区新橋界隈ですが、「烏森神社」に続いて「日比谷神社」に参拝しました。

 

 新橋駅から第一京浜を北に行くと直ぐの位置にあります。環状2号線との交差点にあり、交通量が多く、少し殺風景な所に鎮座しています。

 

御由緒

 日比谷神社の創建年代は不詳ですが、古くは現在の日比谷公園内にあった大塚山という地に鎮座していたと伝わります。そして、日比谷稲荷明神・旅泊(さば)稲荷明神と称していたといいます。慶長年間、江戸城日比谷御門御造営により、港区新橋へ遷座、江戸時代には、「鯖稲荷」と呼ばれます。

 明治5年には村社に列格、平成に入り、環状2号線工事着工に伴い現在地へ遷座しています。

御祭神

 ・豊受大神(とようけのおおかみ)伊勢の神宮外宮の神

 ・祓戸四柱大神(はらいどのよつばしらのおおかみ)
   瀬織津比賣大神(せおりつひめのおおかみ)
   速開都比賣大神(はやあきつひめのおおかみ)
   気吹戸主大神(いぶきどぬしのおおかみ)
   速佐須良比賣大神(はやさすらひめのおおかみ)

 

ビルの狭間、朱色の鳥居が目立ちます。

 

 鳥居の前の社号標です。かつて、日比谷の地から遷座し名前はそのまま「日比谷神社」です。

 

 石段を上ると、左手に手水舎があります。その後ろにJRの路線が見えます。

 龍の吐水口からのかけ流しです。コロナ禍から、柄杓無しのこのような手水舎が多いと感じます。

 

 社殿に進みます。平成21年(2009)に、都市道路計画(環状2号線)により、建造されました。

 

扁額です。

 

 東側からの景観です。賽銭箱に社紋が見えますが、左三つ巴の変形のようです。

 

社殿の西側に、境内社の稲荷社があります。祠の前に2対のお狐さんが守っています。

 

稲荷社の前の少し厳しいお顔の狛犬です。

 

授与所にて御朱印を頂きます。

 

おわりに

 日比谷神社は、新橋という日本を代表するビジネス街の中にあります。高層ビルを背景にしたこぢんまりとした落ち着きのある神社でした。

 徳川入府前の江戸は「日比谷入江」と呼ばれる入江があり、現在とは随分と地形が違います。日比谷神社は、そうした日比谷地区の鎮守であり、当時は地名から「日比谷稲荷明神」あるいは「旅泊(さば)稲荷明神」とも呼ばれたようです。

 この旅泊(さば)稲荷から江戸時代にしゃれで「鯖稲荷」となるとは、江戸っ子の粋の表れのように感じます。当時はこの入り江で鯖がとれたのでしょう。頂いた御朱印の左上の魚の絵は、鯖のようです。

                 以上

新橋の隠れたパワースポット 「烏森神社」の魅力と人気

 一昨日、元会社の同期会が新橋のホテルで開かれましたが、懇親前に、近くの「烏森神社」に参拝しました。

 

 烏森の地は、武蔵の国、桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で松林でした。この松林に烏が多く集まって巣を作っていたことから「烏森」と呼ばれます。その後、新橋に改められ、今では新橋駅の烏森口と烏森神社にその名をとどめます。昨年、上目黒の「烏森稲荷神社」に参拝しましたが、そこも「烏森」の地名は消え、小学校など住区の名称にとどめています。

境内へ

 JR新橋駅の日比谷口から直ぐ2,3分で参道(路地)の入口に烏森神社の看板があります。

 

木製の一之鳥居がありました。

 

参道が、飲み屋街の路地となっています。

 

 路地を抜けると少し変わった形の「二之鳥居」です。都会の神社は、敷地の関係からこのような工夫した形になっているようです。真っ直ぐ階段を上ると拝殿です。結構、参拝の方が並んでいます。

 

鳥居に入って直ぐ右手にコンパクトな手水舎です。柄杓はなくかけ流しです。

 

その上に「烏森神社縁起」が書かれた説明書きがあります。

御由緒

 説明書きの内容です。

平安時代天慶3年(940)に、平将門が東国で反乱を起こした時、征討将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも、このとき勧請したとも伝えられている。室松時代の享徳4年(1455 )には室町幕府関東管領古河公方と云われた足利成氏は、当社に戦勝を祈願した。その祈願状は今日も当社の宝物として伝えられている。江戸時代は稲荷信仰により祭礼も2月初午の日に執行せられ、稲荷祭としてその賑わいは、江戸で一、二を争うものであった。

 明治以降は五月四五六日を祭日とし、夏祭のはしりとしてその名をうたわれている。社殿は、伸び行く新橋の地にふさわしい近代建築美の中に、神社本来の伝統を加味し昭和46年に竣工したものである。」

 御祭神

 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

 天鈿女命(あめのうずめ)

 瓊々杵尊(ににぎのみこと)

 御利益

 商売繁盛、技芸上達、家内安全、諸事円満、福貴繁栄、必勝祈願成就

 

都会のコンクリート社殿

 社殿の手前に阿吽の狛犬です。まだ新しそうで都会の狛犬らしい造りです。

 

 社殿です。やはり狭く、社地なりの工夫があり、都会の社殿らしく近代建築のコンクリート社殿です。

 

 拝殿には参拝者が続きます。比較的若い男女が多く人気の神社のようです。

 

扁額の文字は、「烏森神社」。

 

社紋は、烏紋と左三つ巴です。

烏紋

 

左三つ巴

 

社殿の手前の左側に「きやり塚」と「力石」があります。

 

 木遣塚(きやりづか)とは、元禄年間、江戸城普請の時うたい始めた木遣節を後世に伝えるために建てたもので、あちこちの神社にあるようです。

 

力石は、力比べで使ったもので、よく神社で見かけます。

 

華やかな社務所

 社殿の階段の左脇に社務所があります。通路の奥ですが、ここに来ると華やかな感じです。いつも行く他の神社と違う雰囲気です。

 

 ここには御朱印だけではなく、「心願色みくじ」、「朱印護符」、「癌封じ御守り」などの各種アイテムがあります。

御朱印もカラフルな限定御朱印が多数あるようです。この辺が若い方々に参拝の多い理由かと思います。

 「心願みくじ」は、願望、占うものによって四色に色分けされたおみくじで、おみくじと一緒に願掛けができるというものです。

 専用の書き処にて赤、黄、緑、青のペンを使用して願い事を書き、結び紐に付け、後日、心願成就祈願が行われるそうです。

書き処は華やかです。

 

烏森神社の御守り一覧です。

 

特に「癌封じ御守り」が有名です。癌以外の「病気平癒守りもあります。

 

「朱印護符」は、御朱印と同じデザインのシール型の御守りです。御守などは人気が高く御利益があるとして頂く方も多いようです。

 

その他、辰の飾り物などです。

 

御朱印も各種あります。

 

カラフルな干支御朱印を頂きました。

 

烏森神社の「無病息災の御守り」、「開運招福の長寿梅茶」も頂きました。

 

おわりに

 新橋という都会の駅近くに、狭いながらこのような神社があるとは思いませんでした。お正月明けまもなくながら、引きも切らない参拝者が多く、しかも、若い男女が多かった印象です。

 授与品、心願みくじなどオリジナルのアイテムが豊富で、若い人達の人気のパワースポットのようです。企業努力が優れた神社だと感じました。

                                                   以上

大國魂神社の初詣 能登半島地震から始まった令和六年

 遅れましたが、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。

令和六年も始まり、早々に元旦の「能登半島地震」そして日航機の空港衝突事故と、多難の年を思わせる船出となりました。

 わたしの今年の目標ですが、早々の災害、事故などがあると、いつもながらの変わらない日常、平穏に暮らすことが目標となります。

 

大國魂神社の初詣 

 今年の初詣も、いつもながらの府中の大國魂神社に参拝に行って参りました。 

昨年は元旦の参拝で大変な人出でしたので、今年は遅く、四日に朝早く7時に向かいました。

 最初に、参拝の前に大國魂神社の御旅所(おたびしょ)に立ち寄ります。府中街道を挟んで少し離れた所にある御旅所とは、神社の祭礼で神が巡行の途中で休憩、宿泊する場所です。紙垂(しで)も綺麗で正月らしさが伝わります。

 

境内へ

 表参道の大鳥居の方へ向かいます。旧甲州街道沿いに大鳥居があり、その前にケヤキの大木が立っています。

府中のケヤキ並木の起点です。

 

 大鳥居から参道に入ります。7時過ぎなのでさすがに人は少なく出店も開いていません。ここから「随神門」、そして「中雀門」を通り拝殿に向かいます。

 先ず手水舎で身を清めます。

 

随神門です。随神像の左右大臣に挨拶してから入ります。

 

随神門の前の狛犬さんにも挨拶します。

 

そして中雀門へと向かいます。拝殿が見えます。

 

社殿へ

拝殿です。神紋は、菊花紋章です。

 

御由緒

 大國魂神社は、大國魂大神武蔵国の守り神としてお祀りした神社です。この大神は、出雲の大国主神と御同神で、大昔武蔵国を開かれて、人々に衣食住の道を教え、又医療法やまじないの術も授けられた神様です。俗に福神又は縁結び、厄除け・厄払いの神として著名な神様です。

 創建は、景行天皇41年(111)と云いますから1900年も前のことです。

御祭神:大國魂大神(おおくにたまのおおかみ]

大國魂神社公式サイトより抜粋)

 

御札

 参拝してから授与所にて御札を求めました。朝早くても1か所の窓口のみ開設していました。



御札です。

 

また、「一陽来復神璽( しんじ)」も求めました。

 「一陽来復」とは、冬が去り、春が訪れることを表します。物事が良い方向へ進むようにという願いが込められた御札です。毎年12月冬至の日から2月節分の日までその年の恵方に向けて祀ります。

 令和六年の恵方は「東北東」です。早稲田の「穴八幡宮」の一陽来復御守が有名です。

 

社務所での御朱印受付は、9時からのようです。

 

「おたきあげ納所」で昨年の御札を納めます。

 

そして、社殿の西側からぐるりと見て回ります。

 

本殿

拝殿と本殿を結ぶ扉が開いていました。

 

本殿の東殿が見え、入口に突っ立ったポーズの狛犬さんが見えます。

 

本殿の説明掲示板もあります。

 それによりますと、「大國魂神社は古くより武家の間で崇敬が篤く、鎌倉幕府を始め北条、足利氏も崇敬の誠を尽くしていた。慶長年間に、将軍徳川家康の命により社殿の大造営が行われた。この社殿は慶長11年に竣工しているが、正保3年の府中本町の大火で灰燼に帰している。

現在の本殿は四代将軍徳川家綱の命により寛文7年に完成したものである。」ということです。

 

境内散策

社殿の左側に境内社松尾神社があります。

 御祭神である大山咋命(おおやまくいのみこと)は、太古より醸造の守護神です。

国府鶴など東京の地酒、近くの東京都唯一のビール工場のサントリービールが奉納されています。

 

本殿の後ろに、御神木の大イチョウがあります。しめ縄も新しい。

 

 今まで気付きませんでしたが、御神木の隣に府中の名木百選、「大國魂神社のムクノキ」もあります。

 

そして、境内には、小規模な境内社が多数あります。本殿の東にあるのが「東照宮」です。

 御祭神は、徳川家康公で、元和4年(1618)二代将軍秀忠の命によって造営されました。

 

 社殿を1周して中雀門を越えたあたりに神楽殿があります。その前に正月らしく記念撮影用の辰の大絵馬がありました。

 

そして、裏参道の鳥居から神社を後にしました。何度来ても新たな発見があります。

 

おわりに

 東京は、昨年から暖かく晴天の日が続きます。しかし、能登半島地震、発生してから1週間、時が経過するほど被害の甚大さがが明らかになってきています。復興には時間がかかりそうで、被災された方々の悲しみに心が痛みます。一刻も早く元通りの生活に戻れるよう願わずにはおられません。

 世界に目を向けてもプーチンウクライナ侵略、イスラエルのガザ侵攻など、戦乱が果てしなく続き、結末がどうなるかは、誰にも分かりません。

 

 最後に心が和む写真です。多肉植物、銀手毬(ギンテマリ)に可憐な花が咲きました。

銀手毬は、小さなサボテンで白いとげに覆われ、造形が綺麗です。

 

 そして、柴犬チロリ14歳です。平和な寝姿に癒されます。今年も暑い夏を乗り越え、元気に過ごして欲しいものです。

                                                                        以上です。

感謝と家族の絆:令和五年最後の日 寺社の回顧

 いよいよ令和五年も最後の日となりました。今年も「無事是名馬」家族共々、無事に過ごせたことに感謝です。

 家族とは昨日に総勢8人が久しぶりに集まり、賑やかに、楽しく過ごしました。本日は夫婦二人と柴犬1匹の大晦日ですが、朝から久しぶりの雨のようです。そして、今年の東京は、本当に暖かい冬です。

 この1年も、寺院、神社と変わらず訪問しました。府中市の「大國魂神社」から始まり都内中心に40か所くらい行ったでしょうか。

 

著名人のお墓のある寺院

 その中で印象に残っているのを挙げると、江戸時代に活躍した人物の関係ある寺院が幾つかありました。一つは、世田谷区にある豪徳寺です。彦根藩井伊家の菩提寺で、大老井伊直弼」の墓もあります。墓石は、唐破風笠位牌型です。

 

豪徳寺法堂です。寺宝の「井伊直弼肖像画」が飾られています。

 

豪徳寺と云えば、招き猫です。招き猫に囲まれた如意輪観音が考え込んでいます。

 

 次に、新宿区の四谷界隈の寺院「西念寺」です。ここは、大河ドラマの家康でも登場した服部半蔵が開基した寺院で、開基によって、松平信康徳川家康嫡男)の供養の為に開創されました。

本堂の右側に「服部半蔵の墓」があります。

 

 服部半蔵の墓の傍に「岡崎三郎信康」供養塔があります。信康の母は築山殿(大河ドラでは「瀬名」)です。母子ともに自害しています。

 

 そして、世田谷区に家康の二男秀康の開基した「森厳寺(しんがんじ)」があります。慶長13年(1608)の創建になる浄土宗の寺院です。

 

 この寺院の開基は、これも大河ドラマに登場していた家康の二男秀康です。秀康は、名前のとおり秀吉、家康から一字ずつもらい、歴史に翻弄された、波乱万丈の生涯を送っています。

本堂内陣の阿弥陀三尊像です。上部に「徳川葵」の寺紋が見えます。

 

新宿区東西の総鎮守「花園神社」と「十二社熊野神社

 印象に残っている神社です。新宿区「東の総鎮守」は、酉の市で知られる「花園神社」です。大都会新宿の歓楽街、歌舞伎町に近く、丁度お祭りのときでしたので、大変な賑わいでした。

明治通りからの正面入口、朱色の大鳥居です。両側の露店で賑わっています。

 

 多数の煌びやかな神輿が、出番を待っているのか、宝物殿の前のスペースに置いてありました。

 

 花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿を守る総鎮守として存在し、徳川氏が武蔵国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとも云われています。

拝殿の扁額には、3つの神社の名前が掲げられていました。

 

 そして、新宿区「西の総鎮守」は、「十二社熊野神社」です。新宿の都庁には、何度か行っていますが、その隣にこのような広い境内の神社があるとは、思いませんでした。高層ビルを背景にした拝殿です。

 

この辺りは、江戸時代、池や川があり「十二社の滝」が流れる景勝地だったようで、浮世絵にも描かれていて驚きました。

名所江戸百景 「角筈熊野十二社俗称十二そう」

 

江戸名所図会「十二社の滝」 二代目歌川広重 文久2年(1862)

 

 十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎氏が、紀州熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます。

 

 都心の寺社散策で、その他印象に残っているのは、世田谷区「烏山寺町」の寺院です。寺町通り沿いに「多聞院」、「幸龍寺」など26もの寺院が軒を連ね、「小京都」と呼ばれる落ち着いた雰囲気の所です。ここが東京かと思われる白壁の連なりがありました。

多聞院の石彫涅槃図

 

 その他、日野市の大仏、釈迦如来大仏の「善正寺」、東京から離れて札幌市の藻岩山の麓の「観音寺」などが印象的でした。

釈迦如来大仏(日野市善正寺)

 

札幌市藻岩山の奥の院の内部 天井画と龍頭観音

 

まだまだありますが、この辺で令和五年の回顧といたします。

 

 東京都の寺院の数約2900寺、神社は、その半分くらいです。わたしの訪問した寺院、神社は合わせて200~300寺社位でしょうから、これからも続けていけそうです。

 因みに全国の数からいえば、寺院、神社何とそれぞれ8万寺社くらいです。日本人の篤い神仏信仰の表れと云えます。

 それでは、皆さま良い年をお迎えください。

                       おわり