興福寺は、近鉄奈良駅に近く奈良国立博物館、東大寺、春日大社へと続く通りにあります。
世界遺産に登録されている興福寺ですが、五重塔(国宝、高さ約50m)が約120年ぶりに大規模修理されるという報道がありました。
現存する木造の塔では、京都市の東寺五重塔(高さ約55メートル)に次いで国内で2番目に高い塔です。
興福寺の五重塔は、興福寺の創建者藤原不比等の娘、光明皇后よって発願され、奈良時代天平2年(730年)に創建。
その後5回の焼失と再建を繰り返してきました。現在の塔は、室町時代応永33年(1426)頃に完成したもので、大規模修理は1901年以来です。
尚、興福寺には、鎌倉時代前期に再建された高さ19mの三重塔もあります。
南円堂の隣の南の端で、見過ごしそうですが、北円堂(ほくえんどう)とともに興福寺最古の建物です。鎌倉時代の建物ですが、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えています。
興福寺は、創建当初の姿を再現した中金堂を一昨年に完成したばかりですが、このような文化財を維持、管理し、後世に残していくのも建設技術、財政面など大変な事だと思います。
日本最古の木造建築物である法隆寺の五重塔は、7世紀後半に創建されていますが、1350年近くという長い年月を壊れることなくその姿を今に残しています。
地震大国である日本は、どの五重塔も皆、一度や二度の大きな地震には遭っているはずです。しかし、地震の揺れに倒れることはありませんでした。
倒れない五重塔の仕組みはどうなっているのでしょうか。それは、五重塔の建築構造によるのです。
五重塔は、決して五階建ての建物というわけではなく、一つの高い建物にバランスを保つために屋根を五つ造っているというものです。
塔の中心は「心柱(しんばしら)」と呼ばれる1本の長い柱で貫かれます。
その周りに屋根を伴う構造物を造っています。心柱は周りの屋根とは構造的に分離しており、塔そのものが柱に頼って立っているわけではありません。
五つの層は、あくまでも心柱を守るために存在するもので、心柱は独立して礎石の上に立っていて、周囲の各層には接していないのです。各層は、積み重ねられているだけです。
この様な造りが、地震に強い造りであると考えられています。1層ごとに互いに揺れるから倒れない、あるいは、各層とは反対側に心柱が揺れるから倒れないと云う考え方がありますが、いずれにせよ驚嘆すべき建造物であることは間違いないと思います。
そして、この五重塔の建築構造は、スカイツリーにも、取り込まれています。
スカイツリーにも中心に心柱となる鉄筋コンクリート造の円筒が建てられており、外周部を囲む鉄骨造の塔体と構造的に分離されており、この新しい制振構造が採用されたのです。
1300年以上も前から保たれてきた五重塔の建築技術は、世界屈指の高さを誇るスカイツリーの構造に応用されたのです。
心柱の下には、礎石があり、そこには舎利が納められております。塔とは、語源はストゥーパ(卒塔婆)で、そもそも、この舎利を安置して、遠くからでも拝むことが出来るようにした、いわば墓のような存在なのです。
また、二つの塔が、伽藍にある寺院として、奈良の當麻寺(たいまでら)、薬師寺、東大寺があります。
當麻寺は、奈良時代~平安時代の初期に建立した2基の東塔、西塔の三重塔が現存しております。
西塔は、享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、現在ある塔は1981年(昭和56年)に再建されたものです。
東塔は、奈良時代(天平年間)に遡るもので、10年に及ぶ平成の解体修理を行い、5月に待望の落慶法要を迎えます。
そして、東大寺は、2基の東塔、西塔があったのです。しかも七重塔なのです。西塔は平安時代中期に火事で失われ、東塔は、治承4年(1180)の兵火で炎上、再建の後、康安2年(1362)に落雷で再び焼失しています。
七重の東塔、西塔が「東大寺縁起」(東大寺蔵)に描かれています。
さらに、奈良市に大安寺という飛鳥時代の寺院があります。「大安寺伽藍縁起幷流記資材帳」によりますと、前身の百済大寺には高さ80~90mと推定される九重塔もあったのです。
他にも白鳳時代の文武天皇建立の大官大寺も、礎石の大きさから九重塔とほぼ裏付けられています。
日本の塔のお手本となったと思われますが、中国北魏の永寧寺が、「洛陽伽藍記」などに九重塔であったという記録があります。
北魏の都洛陽城内に造られた永寧寺の九重木塔は、都から40~50km離れても遠望できたといわれています。519 年に建造、534年に火災に遭い焼失してしまいました。
それにしても、現代人に優るとも劣らない古代人の発想の豊かさ、頭脳の聡明さに驚きです。