東京都目黒区 祐天上人開山の古刹「祐天寺」

 涼しい秋の気配漂う、散策に良い季節となりました。今回の散策は、目黒区、渋谷近辺で、先ず中目黒の浄土宗「祐天寺」です。東急東横線の「祐天寺駅」から数分の所にあります。祐天寺は駅名にもなっており、実際に風格ある大寺院でした。

表門

 表門の前にある寺号標です。「目黒 祐天寺」

 

 寺号標と並んで、文化庁の「国登録有形文化財」の登録碑です。本堂、地蔵堂など6点「この建造物は貴重な国民的財産です」と記載されています。

 

祐天寺の表門です。山門の前に表門があります。

 

表門の扁額、「祐天寺」です。

 

祐天寺の塀です。表門は、交通量の多い「駒沢通り」に面しています。

 

祐天寺境内の略図です。

 

 表門の内側右に「子まもり地蔵尊」があります。子どもの百日咳や疳(かん)の虫封じにご利益があるとして信仰されています。

 

仁王門

 表門を入ると仁王門があります。享保20年(1735)に5代将軍徳川綱吉の養女竹姫より寄進されました。目黒区指定有形文化財です。

 

参道の真っ直ぐ奥に、本堂が見えます。

 

仁王門の扁額「明顕山」と金剛力士像です。

 

 仁王門から入ると、参道は真っ直ぐ本堂に続きますが、大木の枝が張り出して良い景観です。

 

御由緒

 開山の祐天上人は、江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。芝増上寺で修行され、6代将軍家宣公から増上寺36世住職を命じられました。

「念仏の道場を建てて欲しい」との祐天上人の遺命を受け、弟子の「祐海上人」が享保3年に建立しました。

 将軍家から寄進された諸堂宇によって伽藍が整えられます。多くの参詣人で賑わう念仏道場として発展し、祐天寺という寺名を冠し開創したのが現在の祐天寺です。

 

本堂

 本堂です。創建時の本堂は明治27年(1894)の火災により焼失したため、明治31年(1898)に現在の本堂が再建されました。

 

 本堂の正面です。扁額は「大慈悲」。前の賽銭箱に江戸火消しの纏が描かれています。

 

寺紋は、「丸に三つ葉葵」と「鐶一紋(かんいちもん)」です。

 

仏舎利殿

本堂の左側が平成29年(2017)に建立された「仏舎利殿」です。

 

 正面の大絵馬は、累(かさね)伝説を題材として昭和61年(1986)に月岡栄貴画伯らによって描かれました。

 

大絵馬と本堂。

 

参道の左側を見て行きます。仏舎利殿に近い所に「五社稲荷」があります。

 祐天上人が出家を決意した際に白狐が三声鳴いたと言われており、その白狐を祐天上人の守護神として祀った随身稲荷が前身です。後に四社が合祀され、現在の五社稲荷となりました。

 

 五社稲荷の祠です。

正一位五社稲荷大明神」として五穀豊穣、家内安全、厄災消除などのご利益があります。

 

阿弥陀堂

 手前の「阿弥陀堂」です。創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。

享保9年(1724)に5代将軍徳川綱吉の養女竹姫より寄進されました。江戸時代中期の三間四面堂を知ることが出来る貴重な建造物として目黒区指定有形文化財となっています。目黒区の説明掲示板です。

 

阿弥陀堂の正面、扁額は祐天寺2世祐海上人が揮毫の「阿弥陀堂」です。

 

堂内に祀られている阿弥陀如来坐像です。

 

地蔵堂

 阿弥陀堂の手前、仁王門に近い所にあるのが地蔵堂です。お堂の前に地蔵堂門があります。

 江戸町火消の崇敬を伝える地蔵堂は、国登録有形文化財(建築物)、門は国登録有形文化財(工作物)となっています。

 

 正面の扁額です。祐天上人の「本地身」の地蔵菩薩像が祀られていることを示す「開山本地堂」と記されています。

 

 御本尊の「地蔵菩薩像」は、寛政9年(1797)に信州松本の光明院より遷座されました。延命と火消しの御利益があるとして信仰を集めました。

地蔵菩薩像は、普段、厨子に安置されているようです。

 

 本堂に近い参道の右側を見て行きますと、先ず地蔵菩薩像です。祐天上人300年御遠忌法要の平成29年(2017)に開眼されました。背中には祐天上人の名号が刻まれています。

 

 地蔵菩薩像の右隣に「地蔵縁起碑」があります。祐天上人の「本地身」が地蔵菩薩であることを記しています。寛政9年(1797)以降に建立されました。

南無阿弥陀仏

 

その手前の手水舎です。ここでは水屋と呼んでいるようです。

 

お釈迦様の足跡を刻んだ「仏足石」です。

 

 「鐘楼」は6代将軍徳川家宣の17回忌追福のため、享保14年(1729)に正室の天英院から寄進されました。国の登録有形文化財(工作物)です。「梵鐘」は、目黒区指定有形文化財(工芸品)に指定されています。

 

累(かさね)塚

そして、累塚です。

 江戸三大幽霊の一人とされる累(かさね)。その累が登場する歌舞伎や講談などは江戸時代人気を博しました。

祐天上人が、累という女性の怨霊を成仏得脱させた伝説があります。

 この累塚は、鶴屋南北がそれを歌舞伎化した作品「法掛松成田利剣」が上演された記念として大正15年(1926)に建立されたものです。

 

境内各所に地蔵菩薩像などの石像があります。

 

御朱印

 そして、御朱印を頂くために寺務所に向かいます。寺務所は、書院、本堂と棟続きです。

 

寺務所の受付で頂きます。外を見ると庭園のようになっています。

受付

 

寺務所から外を見る。

 

御朱印です。

 

2種類のパンフレットも頂きました。中身は丁寧に書かれています。

 

参考資料

 祐天寺公式ホームページ

  祐天寺発行パンフレット

  祐天寺境内説明掲示

 

所感

 祐天寺は、由緒ある名刹として有名ですが、その名の通り緑が多く整然とした境内、阿弥陀堂地蔵堂、石碑など見所も多く、また寺務所の対応と云い申し分の無い寺院でした。そして、全体に流れる祐天上人への尊崇の思いが満ち溢れているように感じました。

 この寺院の開山の祐天上人とは、一体どのような方なのでしょうか。

寛永14年(1637)、陸奥国岩城郡新倉村出身(現在の福島県いわき市四倉町)に誕生。師僧檀通上人のもとに入門したが、破門され成田山新勝寺に参篭、その時に夢の中で不動明王より剣を喉に差し入れられ智慧を授かり、呪術的な能力を持ったとされています。

 以後、力量を発揮、5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院徳川家宣の帰依を受け、増上寺36世法主となり、大僧正に任じられたという方です。

 累(かさね)という女性の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話である累物語など、本当に伝説的な人物であったようです。徳川家宣公(文昭院)時代の大奥、正室の天英院から女中に至るまで傾倒され、生き仏として崇拝されていた僧侶といいます。

 

 祐天寺は、祐天上人を尊崇し、祐天上人は、天上から祐天寺を守護しているように思える祐天寺参拝でした。

                                                            おわり