牛 像

 昨日、緊急事態が宣言され、日本列島は、年初から多難な船出となりました。現在は関東地区ですが、関西、愛知と全国的に拡大傾向です。

東京は、感染者2千人越えという一気に驚くべき数字でした。この数字は、区内だけでなく都下の市町村に広がっていく傾向が、顕著であると感じられます。

 

 さて、今年は丑(牛)年ですが、神社、寺院などに牛像を見かけられます。

太宰府天満宮や京都の北野天満宮など全国に天満宮がありますが、牛は学業の神様の菅原道真公のお使いの動物として信仰されているようです。牛の像のことを「御神牛」(ごしんぎゅう)と呼んでいます。

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太宰府天満宮の御神牛

 また、天満宮には「撫牛の信仰」があるようです。撫牛とは、自分の身体の具合の悪い部分をなでて、その牛の同じ箇所をなでると、病気が治るという風習のようです。

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北野天満宮の牛像 菅原道真公にならって頭を撫でる人が多いようです。

 わたしの近くの神社の谷保神社、布田神社にも牛像があるようなので、まだ、今年は密を避け参拝していないので、機会を見て行こうと思っています。

 それでは寺院についてはどうでしょう。

京都の法輪寺に狛牛がおります。本尊の虚空蔵菩薩は知恵の仏様であるとともに、丑年と寅年の守護本尊で知られています。境内に牛の石像(狛牛)が安置されています。

阿吽(あうん)の狛犬の代わりに「狛虎」と「狛牛」です。ちなみに虎が阿、牛が吽の役割を担っています。

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狛牛

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ついでに狛虎も  丑年・寅年生まれの人の守り本尊でもあるようです。

 京都の東寺の立体曼荼羅の仏像で、5大明王が安置されており、その中の一員で、「大威徳(だいいとく)明王」がおります。牛に乗った六面六臂六脚の明王です。

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大威徳明王 密教の仏像で、牛は水牛です。


京都にある真言教の醍醐寺にも閻魔天騎牛像がおります。

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閻魔天騎牛像

いずれも仏さまに仕える身であり、一途なまでに厳しく耐える姿が健気です。何とも真面目に仕える、それが少しおかしくユーモラスでもあります。

この象徴的な牛像が、2,3年前、奈良国立博物館で特別展「いのりの世界のどうぶつえん」で見た牛像でした。この牛像はどこの寺院にあるとかの詳細は分かりません。

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牛像 

醍醐寺大威徳明王の、牛だけの姿をもう1度見てみます。耐える姿も真剣でどこかおかしく可愛いです。

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醍醐寺の牛   大威徳明王の牛

 また昨年、新薬師寺に行きましたが、ここにも脇役の小さな牛像がおりました。本尊の薬師如来坐像十二神将の伐折羅(ざばら)大将の間にちょこなんと座っている本当に小さく目立たなく不思議な牛像でした。

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薬師寺の小さな牛像 陰に隠れている。

 神と云えば、やはりヒンズー教の神聖な牛です。ヒンズー社会において牛は崇拝の対象となっています。神話にもたびたび牛が登場し、たとえばシヴァ神の乗り物はナンディンという牡牛です。南インドのチェンナイの寺院にナンディンの牛像があります。

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ナンディンの牛像

同じヒンズー教徒の多いネパールには、所々に牛像らしきものがあります。また、街に野放しの神聖な野良牛があちことにたむろしております。

 

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ネパールのあちこちにある牛像

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神聖な野良牛 ネパール、カトマンズのダルバル広場

こう見ていくと、乳牛、肉牛と現在もお世話になっておりますが、人類と牛は古代から関わりが深いことがよく分かります。

                          おわり

令和3年のはじまり

 明けましておめでとうございます。

令和3年を迎えました。天候に恵まれ良い正月と云いたいところですが、新年は、コロナ禍で子供の家族も来宅せず、夫婦と柴犬1匹の静かな年始となりました。

年が代わっても、いつもの通り犬の散歩を済ませ、元旦の初日の出を見に行きました。

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稲城市の日の出時間は6時52分です。

お日様は、間違いなく時間も守り現れるのですね。

 柴犬チロリは、日の当たるところに移動してのんびりしています。今年12歳になりますが、いつまでも元気で過ごして欲しいものです。

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柴犬チロリ

 朝のテレビで、ダブルダイヤモンド富士の中継をやっておりました。

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テレビ画面のダブルダイヤモンド富士 しかも大吉を撮りました。何かいいことありそう。

 令和3年も、コロナの情報に一喜一憂、振り回されるような年になると思います。スペイン風邪は収束するまで3年近くかかっています。ワクチン次第ですが、今回はどうでしょうか。

 

 コロナに近寄らず、侮らず、油断せず、過ごすしかありませんが、今年もどうぞよろしくお願い致します。

                     おわり

令和2年の終わり

 いよいよ激動のコロナ令和2年も最後の日となりました。

思い返せば2月初め、T社時代の同期の懇親会は、まだコロナの話題も他人事のような感じでした。

今はどうでしょう、東京は感染者8百、9百人と大台寸前まで拡散、全国的にも医療崩壊と云われています。威力も増した変異したコロナも出現し、来年も大変な年となりそうです。

 しかし耐えて、耐えた1年、必ずや来年は人類の英知で、光明が見えると信じます。

 

 昨晩は、コールドムーンでした。12月の満月はコールドムーンと呼ばれています。

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令和2年のコールドムーン

 年末の寒波襲来で冬の冷たい空気の中で、まさにコールドムーンです。

因みに来年1月の満月の名称は、ウルフムーン、2月はスノームーンと云うらしいです。

 

 また1昨日の明るいニュースで、金閣寺の18年ぶり屋根ふき替え終了、という話題がありました。

ふき替えに合わせ、鳳凰などの金箔も約1万枚分を補修し、金色に輝く姿がよみがえったようです。文化財を維持、管理していくのも大変です。

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見事によみがえった金閣寺

 そして柴犬チロリは、コロナのことは我関せず、マイペースで今日もガスストーブの前で暖まります。

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柴犬チロリ11歳


 といったところで、令和2年も過ぎていきます。医療関係者その他の方々に感謝、感謝の1年でした。

来年といっても明日からですが、来年のことは誰も予想できませんが、きっと良い年となります。

それでは皆さん良いお年を!

                    1年のおわり

奈良大学博物館学芸員コース今年1年

 令和2年は残り僅か、この1年はコロナ禍で過ぎようとしております。

5,6月の頃は、コロナのため奈良大学に行くことなく講演のレポート、引率(無しの)見学レポート、自主見学レポートなどを提出してきました。

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奈良大学キャンパス

 そして、科目、実習に移りまして結果は以下です。

①博物館概論    レポート合格  科目試験未

②博物館資料論   レポート合格  科目試験合格

③博物館資料保存論 レポート合格  科目試験合格

生涯学習概論   レポート合格  科目試験未

⑤博物館経営論   レポート合格  科目試験未

⑥博物館実習(一)3回実施済  レポート合格   

 

 苦戦したのが①の博物館概論でした。3回目の提出でやっと合格でした。

その原因は、「特色ある学習支援プログラムの紹介とその効果」という設題です。先生の解答の意図は、「市民参加がよく分かる生き生きとした具体例を5グループ×2館あげよ。」ということだと思います。

しかし、それをテキストから拾おうとしても10館も記載していないのです。ネットから拾っても「テキストから」とコメントがつく始末。それには困惑して少し手をつけないで、博物館実習に臨みました。

概論の話題が出て、皆さんが再提出で苦労していることが分かったのです、苦戦しているのはわたしだけではないんだと。ネットで調べて合格という方もいましたので、テキストを何度読んでも10館も見当たらず、止む無くネットで調べて書きました。

最後に、「一部不備がありますが、合格です。今後も学習を重ねて下さい。」とのコメントがあり、お情けの合格でした。

先生は、お忙しいと思いますが、何度も再提出を裁定するその熱心さは有難いことです。

そして、最も心に残ったレポートの合格は、博物館経営論でした。

設問は、「公立博物館の入館者と外部資金の拡大策を述べよ。」というものです。

 評価項目全て「A」でコメントは、「○○さんのこれまでの知見、発想力が活かされた素敵なレポートでした。特に様々なレベル・方向性での連携の構築による相乗効果の創出など、興味深いアイデアが満載でした。

またJR等をモデルにした完全民営化は訊いたことのないスケールの大きいアイデアです。切り捨てられてしまう部分をどうケアするか、切り捨てられない形にどう盛り立てるかなど、考え併せながら真剣に向き合うアイデアだと思います。 

今後も引き続き学びを深め、そのご経験やご見識を地域のまちづくりなどに生かしてください。」と書かれており、最大限の評価に恐縮してしまいます。これは、これからのやる気の出るコメントで有難いと思います。

 参考までに、わたしのレポートの入館者と資金拡大策の中心は、

・現在のコロナ禍のような場合のための、ネットによる仮想博物館

・現代の勧進である、クラウドファンディングによる資金調達。

 リターンは年間入館券あるいはふるさと納税の仕組みを活用など。

指定管理者制度の限界を論じて、それから国鉄、郵政の手法による完全民営

 化へ。

ということでした。

 

 博物館実習(一)のレポートは、7つのレポートを作成しましたが、無事合格で安心しました。皆さん熱心でしたので、全員合格ではないでしょうか。

 

 コロナ禍で万全の準備で実施して戴いた事務局のスタッフの方たちに、感謝申し上げたいと思います。ありがとうございます。

奈良に3度行くことが出来、寺院巡りも出来、受講して良かった今年一番の収穫でした。

 科目試験合格は、博物館資料論、資料保存論の2科目なので当面は、概論、経営論、生涯学習概論の科目試験の受験準備です。1月末に受ける予定です。

概論、経営論を合格すれば、来年度の博物館実習(二)に進めるのですが、コロナ禍でどうなるか分かりません。あまり急がず、ゆっくり進もうと思います。

残りの科目の一つの「博物館展示論」は、博物館を色々廻って観察しないと書けないようなので、来年は、博物館巡りで過ごそうと思います。

しかし、コロナが変異ウィルスなど増々威力を増しそうな気配なので大変かと思います。特に東京は、一日千人の大台寸前です。来年はコロナも収まり良い年としたいと思うのが全ての人の願いです。

                           おわり

追記

 前回のブログで書きました、野鳥ジョウビタキのメスはその後もたびたびやって来ます。可愛らしくて癒されます。

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水ガメに止まるジョウビタキ
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                          以上です。


寒波到来の冬の生きものたち

 東京のコロナ感染者が、千人の大台に近づく大変な局面を迎えた今、日本列島に寒波到来で一気に寒くなりました。

この寒さの中、庭の生きものたちはどうしているのでしょう。

 野鳥は、餌や水を求めて多くやって来ています。いつも頻繁にくるのがヒヨドリメジロシジュウカラなどですが、めったに見ないトリがやって来ました。

ジョウビタキです。

メジロシジュウカラ位の大きさですが、人懐っこい感じであまり逃げなく可愛らしいトリです。

オスとメスでは色が全く違い、わたしはメスのほうをよく見かけます。今回もメスで水を飲みにメダカの水槽に止まりました。

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ジョウビタキのメス スズメよりやや小さい。

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千両の実を食べようとするジョウビタキ

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シャクナゲに止まるジョウビタキ あちこち動きます。

 ジョウビタキは、冬鳥で日本全国に渡来するようです。

メスは全体的に淡褐色で、翼は黒褐色です。中ほどに白くて細長い斑点が特長で、茶色の尾がやや長くよく上下に振っています。

オスは全体的に黒くメスとはかなり違います。

 そして、わたしは、初めて見たのですが、ジョウビタキと同じ位の大きさで、白、黒、茶の体の模様がハッキリとしたトリでした。図鑑で調べると留鳥ヤマガラという野鳥で、このトリも人懐っこい感じがしました。

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ヤマガラ ネットの写真

 メダカですが、日の当たらない水槽のメダカは半冬眠しているようです。陽当りの良い水槽にいるメダカは、暖かくなると元気に泳いでいます。冬眠しないようです。

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白メダカ

 そして、植物たちも頑張っています。今一番目にとまるのが、千両、万両の赤い実です。トリが狙って頻繁にやって来ます。カエデの紅葉もまだ保っています。

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千両

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万両

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カエデ

ミカンがトリに食べられています。多分ヒヨドリだと思いますが、皮ごと半分無いです。

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食べられているミカン

 カネノナルキが、白い花を咲かせています。寒くなると家の中に入れますが、めったに咲きません。

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カネノナルキ(金のなる木) 葉が硬貨に似ているのが名前の由来のようです。

鉢植えのシャコバサボテンは、毎年この時期に花を咲かせます。

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シャコバサボテン

 そして、柴犬チロリです。相変わらず元気で、朝早く暗いうちから散歩に行きます。

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よく外を見ているチロリ。

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寒がりで直ぐにガスストーブの前に陣取るチロリ。あまり近づくので柵を置いています。

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ストーブの前で眠るチロリ。

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暖かくなるとソファで舌を出して眠るチロリ。

 こうして、それぞれコロナにも寒さにも負けず懸命に頑張って生きております。

コロナは収束どころか感染者、死亡者数が増えていっておりますが、個人々が感染しないように気を付けるしかないですね。年の暮れ、新年はどうなっているでしょうか。

 

 これからどんどん寒くなりますが、本格的な冬を待つ生きものたちの様子でした。

                        おわり

『天平の甍』と鑑真和上

 先10月に唐招提寺を巡って来ましたが、鑑真和上が、なぜ危険な航海を何度も試み、日本に来ようとしたか、その経緯を知りたくて井上靖氏の『天平の甍(いらか)』を読んでみました。

井上靖氏は、『西域物語』、『楼蘭』、『敦煌』などの西域の作品を数多く書いております。

天平の甍』は、遣唐使として大陸に渡り、高僧を招くという使命を受けた留学僧と鑑真との運命を描いた迫力と感動の物語でした。

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天平の甍』

 その大体のあらすじはこうです。

 朝廷で第9次遣唐使発遣が議せられたのは聖武天皇天平4年(732年)です。

興福寺の僧栄叡と大安寺の僧普照の二人が思いがけず、留学僧のとして渡唐することになりました。

栄叡(ようえい)は、大柄でいつも固い感じで一見すると40歳位に見えるが、まだ30歳をすぎたばかりです。普照(ふしょう)は、小柄で貧弱な体を持ち年齢も栄叡より2つ程若いです。

この二人で物語は進みますが、普照が主人公の書き方です。

 遣唐使船が出発するにあたり、二人の他に戒融、玄朗という二人の留学僧も加わりました。

 遣唐使船は四ヶ月をかけて中国大陸の蘇州に辿り着き、幾多の困難を越え洛陽についた二人は、玄昉や吉備真備そして阿倍仲麻呂など著名人と相次いで会います。この三人は遣唐使として717年に入唐していました。

 栄叡と普照が、鑑真の弟子道抗の紹介で揚州大明寺の鑑真に初めて会い、日本に戒律を正しく伝え教える人がいないので適当な伝戒の師の推薦を賜りたいと願いました。この時鑑真は55歳です。 

 鑑真は長屋王から千の袈裟を送られていたのを知っていて、「日本という国は仏法興隆に有縁の国である、誰か日本国に渡って戒法を伝える者はいないか」と弟子たちに聞きましたが、誰もいませんでした。

 そこで鑑真は、「たとえ渺漫たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきであるまい。これは、仏教のためどうして命を惜しもうか。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」。こうして鑑真と17名の高弟が日本に渡ることが決まったのです。

 743年の第1回目渡航計画は、高麗僧如海の密告により失敗。鑑真56歳。当時、許可のない海外渡航は禁止されていました。

 同じ年の第2回目は、鑑真が八十貫の銭を費用に工面し渡航しましたが、難破して失敗に終わります。

744年の第3回目も密告され、栄叡が逮捕されます。  

第4回目も霊祐の密告により失敗。

748年の第5回目に渡航、60余人で出航しましたが14日間漂流して、辿り着いたのは南の海南島でした。鑑真61歳。

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東征伝絵巻 巻3第1段(南海へ押し流される鑑真一行)

 この島の大雲寺に仏殿を制作し、天宝8年(749年)を迎える4カ月過ごします。仏具、仏像、経典など日本への将来品を大雲寺に納めました。業行の膨大な写経の一部も。

 ここで栄叡が、ひどく体調を崩します。広州へ行って日本への船便を得ようとしましたが、虚しく亡くなります。享年47歳。

天平5年(733年)に入唐してから17年を経て、栄叡のひたむきな情熱が鑑真を動かしていたのです。

鑑真を日本に渡ることの主導的な役割を果たしたのが、行動人の栄叡です。普照は、鑑真を招くことに栄叡ほどの情熱も行動力も持たず、栄叡の熱意に引きずられていたような感じですが、結局、鑑真を伴って日本に帰ったのは普照でした。

 

この作品に登場する人物はユニークな人間が多いのです。

まず、戒融です。栄叡、普照とともに留学僧として遣唐使船に乗った人物です。長安から出奔して托鉢僧となり、放浪の旅を続けました。

普照に海路で天竺に渡り、帰途は玄奘三蔵の『大唐西域記』の道を辿って、唐に帰るつもりと云っています。

 そしてこの作品の最後に彼が登場し、渤海国を経て日本に帰って来たかもしれないことを暗示させています。

 同じく玄朗です。普照は、消息を八方に声をかけて捜します。6度目の航海の時に、普照の所に妻と二人の女児を連れて日本に帰りたいと現れます。「留学僧として唐土を踏んだが20年間何一つ喪に付けなかった」と。普照は手を尽くし乗船の許可を得るのですが、乗船の際姿を現わさなかったのです。唐土に着く前から弱音を吐き、意志薄弱な僧でしたが、結局、唐土に落ち着く結果となりました。

 そして、業行です。数十年にわたる在唐生活の間に、自分が幾ら勉強してもたいしたことが無いと悟り、一室に籠って沢山の経文の書写に明け暮れます。膨大な写経を日本に持って帰ることを生き甲斐としましたが、最後は運命のいたずらで、残念な結果となります。

それぞれの一生が、小説になるような生き方であったと思います。

 5度目の渡航に失敗した鑑真、普照はどうなったのでしょうか。

鑑真は63歳となって視力が急速に衰えていきます。普照は、「自分は一刻も早くここを去り、鑑真を官の庇護のもとに置かねばならない。」と思いました。

鑑真和上に、日本に帰るため船便を待ちたい、これ以上流離艱苦の生活を強いるべきではないと信じます、と別れを告げたのです。

 和上は、ひとまず揚州に帰り、再挙を図る以外仕方ないと云います。このとき普照は、40半ば、鑑真の弟子の思託は27歳でした。そして鑑真は失明します。

 鑑真の弟子、祥彦(しょうげん)は、「和上は栄叡の死後、渡日のことには一語も語られない。まだ日本へ渡ろうとしているのかどうか、その心の内部は我々には窺い知ることはできない。和上がなお日本へ渡ろうとするなら、悦んでお供する。」と云っていましたが他界してしまいます。

普照は、海南島の大雲寺に置いてきた業行の写経を、再び作成しようと書写に明け暮れ、業行の約束を果たそうとします。

 そうこうするうちに、20年ぶりに天平勝宝4年(752年)に第10次の遣唐使船が、秋に長安に来たのです。遣唐大使に藤原清河、遣唐副使の大伴古麿が任ぜられています。また、再び吉備真備藤原仲麻呂の謀略で副使として一行に加わっています。

 普照は、遣唐使船が遅くとも来年中には帰国するだろうと思いました。そこで、最も今までの鑑真との経緯を理解してくれた副使の大伴古麿に、鑑真を帰りの遣唐使船で連れ帰るよう懇願しました。大伴古麿は、理解を示し玄宗皇帝の許しも得ました。

 大使、副使3人が、鑑真に渡航の意思を尋ねたところ、鑑真は、「今度こそ日本国の船で本願を果たしたい。」との意思を伝えました。

玄宗皇帝から帰国の許しを得た阿倍仲麻呂も同行します。

 普照、鑑真、弟子の思託他14人の僧侶、同行者10人です。将来する仏像や経典類は想像を絶する膨大な量です。このとき鑑真は66歳です。

  そして遣唐使船は4船に分乗、鑑真と弟子14人は大使と阿倍仲麻呂の第1船、普照、業行は副使古麿の第2船です。

しかし、使節団の幹部から意見が出て鑑真らは下船、それを古麿が独断で第2船へと救ったのです。普照、業行は第2船の人数が多くなり、真備と一緒の第3船となり、15日夜半に4船出航します。

 この船割りが運命を決めることになったとは誰が予想したでしょうか。

天の原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山にいでし月かも

阿倍仲麻呂が歌ったのはこの夜のことでした。

普照、業行の乗った第3船(真備が副使として同乗)がいち早く六日目で阿古奈波(沖縄)に着きました。

第1,2船も翌日島に着き、唐語を解する者として普照は第2船に、業行は第1船に移りました。

 第2船は翌7日に益救島(屋久島)に寄港、それから暴風雨に見舞われ、20日薩摩国阿多郡秋妻屋浦(薩摩半島西南部の漁村)へ着いたのです。

そして筑紫太宰府に帰朝したことを正式に秦せられたのが正月11日のことです。

2月に普照は、鑑真の一行とともに難波に到着、河内の国で藤原仲麻呂が出迎えています。そして奈良の都に入ります。

 普照たちの第2船に少し遅れて、真備の第3船も薩摩の国に漂着しましたが、大使清河、阿倍仲麻呂の第1船そして第4船の消息は全く不明でした。

 この時の奈良の都は、玄昉、真備、行基藤原広嗣藤原仲麻呂がしのぎを削っていたのです。

真備、仲麻呂のこの辺りの争いは、幣ブログにて。

吉備真備(きびのまきび)の生涯

https://kumacare.hatenablog.com/entry/2020/01/29/154411

 鑑真、普照らは、伝燈大法師位を贈られます。そして、東大寺盧舎那仏の前に戒壇を立て、聖武天皇は壇に登り、鑑真および普照、法進、思託らを師証として菩薩戒を受けます。

太后孝謙天皇も登壇受戒、ついで僧四百三十余人が授戒し、これ以後三師七証による正式な受戒を経た者でなければ、政府公認の僧となることが出来なくなりました。

 その後に第4船の薩摩国に到着したとの連絡が入りました。第1船は、沖縄から出航直後に座礁し、その後暴風雨に遭い、南方へ漂流し、何と安南(現在のベトナム中部)に漂着します。

現地民の襲撃に遭い殆どが客死する中、清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えます。

しかし清河と仲麻呂の二人とも2度と故国に帰ることは無かったのです。生存者の中に業行はいませんでした。

鑑真が予定通り第1船に乗船していた場合、普照と業行が入れ替わっていなければと考えると、運命のいたずらと云うには、余りにも残酷すぎます。

 

 この清河、阿倍仲麻呂の生存の報が日本に伝わるのは安史の乱などで混乱し、4年の歳月がかかりました。阿倍仲麻呂長安に戻ったころ、奈良では、東大寺大仏院の西に戒壇院が落成しています。

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戒壇

 戒壇院は、戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていましたが、江戸時代までに3度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興されました。

 そして天平勝宝7年(755年)、鑑真は西京の新田部親王の旧地を賜り、天皇より「唐招提寺」の勅額を賜って山門に懸けました。

最後に、小説『天平の甍』の題名の由来が語られます。

 天平宝字2年渤海国に送った使小野国田守が帰朝して先ほどの清河、仲麻呂ともに唐朝に仕えているという報をもたらすと共に、一個の甍を普照のために持って帰国したのです。

あて名は日本の僧普照となっており、それが唐から渤海を経て日本へ送られてきたのですが、それを託した人物がいかなる者か判りません。

甍は鴟尾(しび)であり、普照は送り主や理由は分からなかったのですが、唐様の鴟尾は、唐招提寺に使われたのです。

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唐招提寺金堂

 鑑真が寂したのは、唐招提寺ができてから4年目の天平宝字7年の5月でした。鑑真は結跏趺坐して寂しました。享年76歳。

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弟子の忍基の鑑真の彫像(脱活乾漆像) 

 主人公の普照の没年は不明です。

 鑑真の仏法を守る、仏の教えを広めたいという純粋な一念から、弟子が行かないのならわたしが行くと、凡人には理解できない、何度も失敗しても、目が見えなくなっても、日本に行くことを止めなかったのではないかと、わたしはこの『天平の甍』を読んで強く感じるのです。

 6回目となる鑑真と普照の出発する際のやりとりは、涙なしには読めないほど感動しました。

 玄宗皇帝が道教を重んじ、それで鑑真は日本への渡航を決意した、あるいは、聖武天皇の権威を強化するため、則天武后が菩薩戒を受けて皇帝の正当性を主張したように、これに倣って菩薩戒(君主が権威をまとう重要な戒律)を受けたかったなど、どうでもよい理由ではないかと思わせるほど、深く心に余韻が残る作品でした。

 因みに、宝亀10年(779年)、淡海三船天智天皇の玄孫)により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっています。

これは、鑑真とともに来日し、最後まで鑑真の秘書として付き添った思託から聞いて著したものです。

長くなりましたが、終わりとします。有難うございました。

半世紀前の出来事

 先日、スマホでネットのニュースを見ていたら、「死者3名福岡大ワンゲル部」の記事が目にとまりました。文春オンラインの記事です。福岡大ワンゲル部といえば、もしかしたらと思って開いたのですが、思った通りでした。

 それは、50年程も前のヒグマの襲撃事件です。なぜ今になってこのような記事が出るか不思議でしたが、わたしにとっては今でもはっきりと覚えている事件です。

 今、全国でクマの襲撃がニュ-スになっていますが(殆ど本州のツキノワグマ)、それは、「死者3名福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃50年後の初告白」と題したものでした。

1970年に北海道日高山系で3人がヒグマの牙に斃れた、なぜ惨劇は起きたのかというもので、史上最悪のヒグマによる獣害事件として知られる「福岡大学ワンダーフォーゲル部事件」の顛末でした。

 悲劇の舞台となったのは、北海道の日高山系で山の名は、「カムイエクウチカウシ山」です。我々は当時カムエク、カムエクと呼んでいました。

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日高山脈の位置

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カムイエクウチカウシ山

名称はアイヌ語の「熊(神)の転げ落ちる山」に由来します。

 福岡大学ワンダーフォーゲル部の学生5人が、1970年7月に日高山系を縦走の25日、カムイエクウチカウシ山(標高1,979m)の九ノ沢カールでテントを張ったところ、ヒグマが現れました。

 音を立てるなどして、追い払いましたが、その夜も再びヒグマが現れ、また次の日の早朝も現れ、テントを破り倒しました。5人のうちの2人が救助を呼ぶため下山を開始し、その途中で北海学園大学のグループや鳥取大学のグループに会ったので救助要請の伝言をし、2人は他の3人を助けるため戻ったのだそうです。

 そしてその日の昼に、5人合流したのですが、その夕方に再びヒグマが現れ、ここから悲劇が始まります。次々と襲われ、結局3人が犠牲となり、逃れた2人が下山し救助隊が派遣されたのです。

 3人の遺体は確認され、ヒグマは八の沢カール周辺でハンター10人の一斉射撃により射殺されました。

 確かに、このように複数の人間が命を落とす被害の事件は、聞いたことがありません。しかもこのヒグマの執拗な攻撃心です。2日間にわたって逃げる学生たちを執拗につきまとい、この惨劇をもたらしました。

 そもそも当時、日高山系でヒグマが人を襲うということは、地元山岳会のメンバーは、まず考えられなかったと証言しています。

わたしは当時学生で、その事件の何日か前に、3人のパーティで日高山系に入っておりました。

 ルートは、道も無いので札内川沢登りから稜線に入り、カムエクからエサオマントッタベツ岳、戸蔦別岳そして幌尻岳(2052m)への1週間くらいの予定で縦走を計画したのかと思います。

そして我々の事件は、幌尻岳で起きました。

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幌尻岳(標高2,052m) 

 日高山脈の主峰で、日本百名山に選定されています。七つ沼カールは有名で、そこは絶景の地です。カールとは、氷河の侵食によるスプーンでえぐったような地形です。

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 日高地方の地図 

 カムエク、エサオマントッタベツ岳、幌尻岳が連なっております。

夕方に七つ沼カールに着いたのですが、その時尾根にヒグマがいる事を確認しています。

カールから尾根のヒグマはよく見えたのですが、まあ距離もあるし大丈夫と気にもせず、テントを張り設営しました。

 その晩の献立は、クリームシチューでしたが、明日は下山ということで気が緩んだのか、持ってきたジンを飲み寝たのです。

まだクリームシチューが残っていたコッフェルやインスタントラーメンなどが入ったザックなどをテントの外に出していました。

 そして朝早く、何か物音がするので目を覚ますと、直ぐにヒグマがテントの周りにいることを感じました。怖くてテントの外は見られません。

それからどのくらい時間が経ったのでしょうか、じっとしてヒグマが立ち去ってくれるのを待ちました。

 1,2時間位かと思いますが、埒が明かないのでテントの中で音を出したりしていました。そのうち静かになったのでテントから出ると、ヒグマはいなかったのです。

外へ出したザックは無残にも破られインスタントラーメンなどは食べられていました。

 そしてクリームシチューが残っていたコッフェルも遠くに持ちされて、綺麗に食べられていました。

もし食料がなかったらテントの中に入って来たかもしれません。

 こうして難を逃れ急いで下山したのです。途中でやぶ蚊に悩まされてテントで1泊したのですが下山のルートは、はっきりと覚えておりません。

また、下山途中に地元のパーティに出会ったのですが、ヒグマに遭ったことを告げたところ、直ちに下山しました。さすがに地元の人はヒグマの怖さをよく知っていると感心した事を記憶しています。

 そして、札幌に帰って一週間くらい経ったのでしょうか。北海道新聞に載っている記事を見て、驚きと恐怖を覚えました。「福岡大学ワンゲル部ヒグマ事件 3人死亡」というニュースは衝撃的でした。日髙山系のどこの場所か明確には分かりませんが、幌尻岳近辺であることは分かりました。

 今回の記事で、50年前の事件の場所などの詳細が初めて分かりました。我々の襲われたのは幌尻岳の七つ沼カール、福岡大ワンゲル部は、カムエクの九ノ沢カールです。

 幌尻岳とカムエクは、エサオマントッタベツ岳を挟んでいますので、同じヒグマかどうか分かりません。ヒグマは、行動範囲が広く尾根づたいに行けば、そんなに遠くないとも言えます。

そして、そのヒグマが射殺されて剥製になっていることが分かりました。

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福岡大学ワンダゲル部襲撃事件のヒグマの剥製

 まだ成獣ではなく推定3歳の雌で、あまり大きくありません。「日高山脈山岳センター」に展示されています。

 

 とにかく、学生の頃は山によく行っていましたが、忘れられない山行でした。往きの札内川沢登りも地下足袋に、滑るのでワラジを履くというスタイルで、稜線にでるまで高巻きなど苦労したことを覚えています。

北海道では老年期の山が多く、難易度の高い山は、日高山系くらいです。(冬山は別です。)

大学の山岳部などは、思ったほど多く日高山系に入っていたのだと思います。そして飲食の残り物を置いて行き、それを目当てに味をしめたヒグマが狙っていたのがこの事件だったのではないでしょうか。

 いずれにせよ、当時の我々のパーティは、運が良かったのだと思います。半世紀経った今しみじみ分かりました。

                              おわり