緊迫するアフガニスタン情勢

 アフガニスタン情勢が再び厳しさを増しています。米軍の撤退によりタリバンが、全土を一気に制圧し、それに呼応するように他の過激派の自爆テロなどにより混乱を極めた形になっているからです。

アフガニスタンは、中央アジアと南アジアの交差点に位置する山岳地帯の内陸国です。

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アフガニスタン周辺地図

 パキスタンやイラン、トルクメニスタンウズベキスタンタジキスタン、中国と国境を接しています。1994年頃からイスラムへの回復を訴えるタリバンが勢力を伸ばしましたが、2001年より米国同時多発テロ事件を機としてアルカイダタリバンに対して軍事行動がなされ、タリバン支配地域を奪還しました。

2004年1月には新憲法が制定され、2014年にはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代が実現しました。じゅうたんやレーズン、羊毛などを輸出していますが、不安定な治安状況により経済は厳しい状況です。(出典:外務省、国・地域、アフガニスタン基礎データ)
 現在の状況は、結局タリバンが権力を掌握し、20年前に戻った感じです。タリバンと云えばマララさんを銃撃、あるいはバーミヤン石仏を爆撃したりする過激な出来事を思い起こします。 

 マララさんは、2014年にノーベル平和賞を受賞していますが、15歳の時、武装勢力パキスタンタリバン運動 (TTP)に銃撃を受けました。

奇跡的に回復しますが、TTPは「女が教育を受ける事は許し難い罪であり、死に値する」と正当性を主張したのです。

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マララ・ユスフザイさん(24歳)

 現在、アフガニスタンで活動しているタリバンパキスタンのTTPとの関連は分かりませんが、女性に対しては教育を受ける権利を奪うなど思想は同じで本質は変わらないと思います。

 また、タリバンは、仏教石窟などがイスラム教で禁じられている偶像崇拝につながるものとしてバーミヤンの石仏を破壊しています。

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一部破壊する前のバーミヤンの石仏

 アフガニスタンには、4~6世紀に建立されたとされる中部バーミヤン市の巨大石仏仏教彫像を中心に数多くの貴重な世界的文化遺産を有しています。しかし、遺産の多くが修復されることもなく破壊の危機に晒されています。

 

 それでは、タリバンとは一体何者なのか、またアフガニスタンのその他のイスラム過激派について整理してみます。

タリバンは、1979年にソ連アフガニスタンに侵攻したのがきっかけで出来た組織です。当時、ソ連は、アフガニスタンアメリカを中心とした自由主義陣営に取り込まれるのを防ぐ狙いがあったのです。

そこで起きたのが反ソ聖戦です。ソ連に侵略されたアフガニスタンを助ける、という旗印の下、アラブを中心にイスラム社会全体から義勇兵アフガニスタンに集まりました。タリバン結成の起源はここにあります。

タリバン義勇兵の中心を担ったのは、イスラム神学校で教育・訓練された学生たちです。アフガニスタンで最大の人口を持つ民族のパシュトゥン人で構成されています。(アラビア語タリバンの意味は「学生たち」)

 つまり、タリバンは元々アフガニスタンに住む人々が中心となった土着のイスラム過激派組織なのです。

 因みに、1979年ソ連侵攻の翌年は「モスクワオリンピック」ですが、米国の呼びかけで西側諸国、日本もボイコットしました。

 そして、気になるのは、タリバン以外の他のイスラム過激派の存在です。タリバンとも敵対する「イスラム国ホラサン州」という組織があります。今回、タリバンアフガニスタンを制圧したころ、空港付近で自爆テロを起こし混乱に拍車をかけた組織です。

イスラム国ホラサン州は、タリバンを離脱した過激隊員が主軸で、イスラム主義勢力内でタリバンの最大の敵対勢力です。

 イスラム主義武装勢力イスラム国」(IS)が猛威を振るった2015年、アフガンの支部として結成され、アフガンでも最も極端で暴力的なテロ武装集団と云われています。

彼らはここ数年間、女子学校や病院を攻撃し、自爆テロや銃撃テロを繰り返しています。根拠地は、アフガン東部のパキスタン国境地帯のナンガルハールで、同地域の麻薬密売と関係があり、資金も豊富のようです。

 そして、タリバン内の1派で最強硬派として目されているのが「ハッカーニ・ネットワーク」です。タリバンイスラム国ホラサン州は、アフガン東部で直接衝突しましたが、両勢力の間の連携性が完全に遮断されたわけではありません。

この「ハッカーニ・ネットワーク」がそのつなぎ役として知られています。ハッカーニ・ネットワークは、タリバン内でも国際的なテロネットワークが強い勢力で、早くからアルカイダとも緊密な関係を結んでいます。また、パキスタンに対しては、政府施設や軍への攻撃を行っておらず友好関係が保たれているという組織です。

そして、アルカイダです。この組織もまたソ連・アフガン戦争中の1988年、ソ連軍への抵抗運動に参加していたウサマビンラディンらによって結成された組織です。

 2001年にアメリカ同時多発テロ事件を起こしています。これによりアメリカが「9.11事件」以降、世界中のイスラム過激派を壊滅させる徹底的な攻撃で、アルカイダは壊滅的な打撃を受けたのです。

 しかしここで、アルカイダは、組織が生き延びるために大きく変貌します。インターネットを利用して「組織なき組織」に変わるのです。中枢組織や指揮命令系統を有していると、アメリカに狙われ易くなるということで、それらをなくし、アルカイダはいわば一種のイデオロギーになったというわけです。

 インターネットがあれば、明確な組織がなくても、アルカイダにアクセスでき、イデオロギーを共有できるからです。

つまり、アルカイダイスラム主義という共通のイデオロギーの下に、世界中のイスラム過激派組織が連携する、明確な組織を持たない国際的なネットワークに変貌したのです。

ウサマビンラディンは1988年に組織を立ち上げ、2011年にアメリカにより殺害されています。

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ウサマビンラディン

 タリバンは、以上の国内のイスラム国ホラサン州、ハッカーニ・ネットワークそしてアルカイダ、また周辺国のパキスタン、トルコなどと対抗しなければなりません。

 それでは、今後アフガニスタンはどうなるのでしょうか。

現在、タリバンは、新政権樹立に向けた動きを加速させる構えで、崩壊した民主政権側の幹部らを登用した新政府を近く発足させると伝えられています。

 また、「旧政権の関係者含めて全員を恩赦する」ことや、「イスラム法の範囲内で、女性の権利を尊重する」ことを公式に表明し、「米国との良好かつ外交的な関係を望んでいる」とも云い、穏健な姿勢を見せています。

イスラム主義勢力タリバンの最高指導者は、ハイバトゥラ・アクンザダ師です。

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ハイバトゥラ・アクンザダ師

 タリバンが本拠とする南部カンダハル州出身の宗教学者で、60歳前後とみられ、その経歴には謎が多く姿を見せない人物です。イスラム法に基づく宗教見解(ファトワ)を数多く発し、「聖戦」を正当化する理論的支柱になっています。

 

 結局、アメリカのアフガニスタン統治は、多くの犠牲を払い、再びタリバンに渡り20年前の状態に戻ってしまいました。

しかし、タリバンの統治能力、多額の資金確保、先に述べたイスラム国ホラサン州などのイスラム過激派との対峙等々問題は山積しており、予断は許しません。

国際社会は、新政府による統治がどのようなものになるか、固唾を呑んで見守っています。

 そして、新疆ウイグル自治区イスラム過激派組織「東トルキスタンイスラム運動」を抱える中国の動きも不気味です。シルクロードの一部をなす経路、ワハン回廊を巡る動きが表面化するかもしれません。長くなりますのでこの件については別の機会で。

                             おわり

追記

 アフガニスタンに関係ある人物として、中村哲医師を忘れてはいません。

1984パキスタンペシャワールに赴任、貧困層の診療を開始されました。1986年からはアフガン難民のための事業を設立し、PMS基地病院をパキスタンペシャワールに建設。以後、アフガニスタンパキスタン両国において地域医療に尽力されました。
 2000年以降は、アフガニスタンの灌漑事業に着手され、戦乱と干ばつで荒廃した大地を次々と緑の農地に変え、この地域で生きていけるようになった人々は65万人にも及びます。

 しかし、2019年にアフガニスタン東部・ジャララバード市内で何者かの銃撃を受けて亡くなられました。

パキスタンアフガニスタンで30年以上にわたり活動を続けてこられた中村哲医師は、偉大な功績を残されました。あらためてお悔やみ申し上げます。

奈良大博物館実習(二)の予定決まる

 このところ、先月聖徳太子特別展、寛永寺に行って以来、博物館や神社仏閣に行っておりません。最近のデルタ株の全国的蔓延のため、不要不急な外出が何となくはばかられるからです。

 そんな時、奈良大学から封筒が届きました。謹んで開くと何と博物館学芸員資格コースの実習(二)の連絡で、9月5、6日に実習を行うというものでした。急で驚きました。確か実習(二)は、11月実施の予定で9月末頃連絡が入ると思っていたからです。

 

 この緊急事態宣言下で少し迷いましたが、去年の実習(一)のときも来年の事は誰にも分からないと思い受講しましたので、今回も受けることにしました。

実習(二)は、予定では5日間連続でしたが、2回に分けるというもので、今回奈良大学で2日間、11月頃に大阪府大東市立歴史民俗博物館あるいは奈良大学博物館で3日間とのことでした。

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奈良大学キャンパス

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奈良大学博物館の今月の展示 HPより

 大学側も相当このコロナ禍で、苦慮しているようです。館内実習で必要な5日間の日程を確保することと、感染防止の為に少人数で実習を実施することを主として調整を行ったようです。

 ここで思案のところですが、ワクチンを接種しているし、今の巣篭もり生活から脱するには、良い機会だと思い行くことにしたのです。

まあ行くからには前泊して、密にならないような古刹などをついでに行こうかと思います。ただ奈良県も感染者が2百人を越える日もあり、先週越えを続けていようで予断は許さないのですが。

 それにしても、このコロナ禍は一体いつ収束するのでしょうか。

ワクチンについてですが、接種率が進めば決め手になると云われていましたが、本当にそうなのでしょうか。接種率が40%を越えてもまだ全国的に増加傾向が当分続きそうで、集団免疫もあまり期待出来ないようです。

ワクチン2回接種しても感染する人が、予想通り発生しています。また、最近の調査結果にて接種後2週間で抗体量が1/3に減少したり、抗体量が出来ない人も5%位いるとか年齢差、個人差がかなりあるようです。

 結局は、接種後の様子見、調査結果待ちとしか云えないような気がします。

スペイン風邪について1年前に幣ブログで書きましたが、1年前と現在と状況はあまり変わっていないようです。従って来年もどうなっているのか、誰も分からないのです。

1年前のブログ

スペイン風邪と今 - クマケア治療院日記 (hatenablog.com)

 

 9月初めの奈良行きですが、まだまだ暑いでしょうね、奈良は。待ってろよ奈良のシカさんたち、楽しみにしてるよ。

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奈良のシカさんたち 奈良国立博物館

                                                                                         おわり

外来生物の逞しさ

 動植物の外来生物のはびこりは、相当なもののようです。

植物では、「セイタカアワダチソウ」、「オオキンケイギク」をどこでもよく見かけます。

 セイタカアワダチソウは、明治時代末期に園芸目的で持ち込まれましたが、北アメリカ原産の外来種です。

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セイタカアワダチソウ

 背が高く地下茎を伸ばして良く増え、都会の空き地でもよく見かけ厄介者といったイメージです。また、ブタクサに見た目が似ていることもあって、秋の花粉症の原因となると誤解されます。しかし、風媒花ではなくハチなどの虫によって受粉する虫媒花なので花粉症とは無関係のようです。

 オオキンケイギク、これもよく見かけます。空き地や道路脇などでコスモスに似た黄色い花を咲かせます。

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オオキンケイギク

 繁殖力が強く一度定着すると、在来種の野草などの生育場所を奪い、周りの環境を一変させてしまいます。 「きれいな花だからといって、自宅の庭や花壇などに植える事などは絶対にしないで下さい。」と呼びかける市もあるほどです。

 実は、我が家の庭にもはびこっている外来種の植物があります。

それは、タカサゴユリ高砂百合)で、よく聞くテッポウユリと見分けがつきにくい白い花の植物です。数年前から植えてもいないのにいつのまにか2本が競うように背を伸ばし2、3mもあり花を咲かせました。それから分散してぽつぽつと増え、違う場所に伸びてきます。今年は多数分散して生えています。

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タカサゴユリ

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アプリ「ハナノハ」でもテッポウユリと出ます。

 タカサゴユリは、一般にテッポウユリよりも大型で、葉が細めですが区別はつきにくいです。白い花は、大きくそれなりに綺麗です。

最近の読売新聞の記事に載っていたのですが、タカサゴユリは、台湾の固有種で100年近く前に園芸用に移入されたのですが不思議なことに、15年ほど前から武蔵野の路傍、荒れ地、庭などに目立つようになったそうです。増え方は、一つの実に千個もの大量な種子が実り、風に乗って広範囲に散布され、発芽した翌年から開化します。なるほどその通りですね。

 近年はテッポウユリタカサゴユリの園芸的交配が行われ「シンテッポウユリ」という新しい品種が生まれているそうです。タカサゴユリは、花の見た目は美しいのですが所構わずはびこってしまう外来種、交雑種なのです。

 

 外来種の動物では、アライグマ、アカミミガメ、アメリカザリガニカミツキガメブルーギルなどを直ぐに思いつきます。

また、貨物で運ばれたのか、「セアカゴケグモ」発見のニュースが度々あります。

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セアカゴケグモ

 セアカゴケグモは、神経系に障害を起こす毒を持つということですから、身近にいると怖い気がします。背中に赤い縦じまがあるのが特徴です。

オーストラリアが原産地と云い、1995年に大阪府で発見されて以降、その他いくつかの地域でも見つかっています。毒は獲物を咬んだときに獲物の体内へ注入されるようです。

 千葉県の外来生物キョン」もよく聞きます。キョンは中国南東部や台湾などに分布する小型のシカで、体高は40~50cm程度しかありません。勝浦市にあった観光施設「行川アイランド」から逃げ出したとされています。気候が温暖で餌となる下草に恵まれていることもあり、個体数は年を追うごとに増えていったようです。キョンによる農作物被害や自然植生の食害も懸念されておりますが、なかなか駆除は進まないようです。

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キョン

 我が家の近辺には、ハクビシン(白鼻芯)が外来種で以前見かけました。果物が好きなようで、ブドウ、ビワを度々食べに来ました。最近見かけませんが、今年もブドウが無事で来ないようです。

庭にはニホントカゲニホンヤモリが住んでおりますが、ニホンが付くので外来種ではなさそうです。

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ニホントカゲ 長年住んでいます。

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ニホンヤモリ 家を守ってくれています。

 そして、柴犬チロリもいますが、これも日本原産の日本犬の一種です。

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柴犬チロリ 角が生えているようです。

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いつも通り道に寝ており、遠回りをしなければなりません。

 こう見てくると在来種は、小型で温和で、自分の領域を守り、環境に害を与えていない場合が多いようです。

 

 しかし、外来種も、最初は食料不足や鑑賞用などそれなりの理由があって導入されたのだと思います。結局は、人間の身勝手さがこのような在来種に影響を与える結果となったということなのです。

                   おわり

廃仏毀釈と文化大革命

 最近のデルタ型コロナの感染は、東京都の感染者数は極端ですが全国的に著しく拡大しています。政府ももう打つ手無しといった状態で、浮かれた五輪のつけが回ってきた感じです。

今後もこのような状態が続くと思われ、医療崩壊となり収拾がつかなくなると思います。ワクチンの接種が進み、集団免疫ができるまで収まらない感じで、恐ろしくなります。古代から続く感染症との戦いで、人類はあまり進歩していないということでしょうか。

 

 さて、本題ですが、古代から関係の深い日本、中国の文化史に汚点を残した「廃仏毀釈」と「文化大革命」を自分の備忘録として取り上げます。時期が100年程違いますが、時の権力者が主導し、それに民衆が鬱憤を晴らすかのように全国的に広がり、収束も同じ10年程と似通った経過を辿っています。 

 まず廃仏毀釈ですが、何度もこのブログで取り上げてきましたが、発端は、1868年の神仏分離令で、神道と仏教の境界線を明確にするよう求めるものです。それまでの日本は、神仏習合、日本人が千年をかけて、神と仏を一つの信仰体系として融合し、独特の信仰を作り上げてきました。 

 各地に、神社に隣接した神宮寺が建てられ、神殿に仏像が置かれました。平安中期、神々は仏の化身だとする「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」が広まり、神に対する仏の優位が定まるものの、近世まで両者はおおらかに共存していたのです。

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飯綱権現を祀る高尾山薬王院の権現堂

 飯縄権現は、長野県飯縄山山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神です。

しかし、明治新政府は、王政復古と祭政一致の国家を目指して神道を国民統合の精神的支柱にしようとしました。

ただ廃仏毀釈は、江戸時代前期から儒教の立場で神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きがありました。仏教寺院を削減するなどの政策をとった藩もあります。後期には水戸光圀の影響によって成立した水戸学において神仏分離神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなっていきます。

 明治新政府は、こうした水戸学あるいは平田篤胤が創設した平田派の影響を強く受け、神道を国家統制下におく国家神道の方向へといったのです。

そして「神仏分離令」、「神仏判然令」そして「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆が、筆舌に尽くし難い仏教施設の破壊行為に走るのです。

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奈良興福寺五重塔 25円(現在の100万円)で売りに出されました。

 一方、日本の隅々まで廃仏一色に染まったわけではありません。四国では比較的穏健な地域が多かったし、三河や越前では廃仏に対する抵抗運動さえ起こりました。廃仏にくみしない地域では、破壊の危機に直面した他地域の堂塔や仏像を受け入れました。住吉大社の多宝塔の西塔、あるいは伊勢神宮の神宮寺の仏像など守られ残されたものも多数あります。

 やがて政府は、過度な神道国教化政策を抑制し、「神仏分離廃仏毀釈を意味するものではない」との注意を改めて喚起しますが、破壊された文化財の代償はあまりにも大きかったと思います。そして廃仏毀釈の波は、10年程で収まります。

 

 次に中国文化史の汚点、文化大革命をみていきます。文化大革命は、1966年から廃仏毀釈と同じ約10年続きました文化改革運動です。しかしその内実は、毛沢東による同じ社会主義間の権力・思想闘争にすぎません。

 急進的社会主義建設路線の完成をめざした毛沢東国家主席は、1958年に「大躍進政策」と呼ばれる国内の増産政策を発動し、これに失敗し失脚します。実権は劉少奇、鄧小平に移ります。

 しかし毛沢東は、紅衛兵と呼ばれる若者たちを扇動し政権を実権派として暴力的に迫害します。 従来の社会主義市場経済の導入を図った政権幹部が、資本主義の道へ進むとしているのが理由です。

 原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちによって1966年に「紅衛兵」と呼ばれる団体が結成され、十代の若者が続々と加入し拡大を続けます。紅衛兵の暴走は全国的に広がり、伝統文化や人々に甚大な被害をもたらしました。彼らの活動はしだいに毛沢東にも制御不能になっていきます。

 中国共産党の幹部、知識人など反革命分子と定義された層は、紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、劉や鄧が失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者が続出します。そればかりではなく、旧文化であるとして文化浄化の対象となった貴重な文化財が甚大な被害を受けたのです。

 紅衛兵らは、旧思想・旧文化の破棄をスローガンとして、各地で大量の殺戮や内乱が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上とも云われています。

またマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、中国最古の仏教寺院である白馬寺など寺院、宗教的な文化財が破壊されました。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄、殺害されたりしたのです。

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白馬寺「山門」

 終結は、1976年に文革派と実権派の間にあって両者を調停してきた周恩来が、1月に死去したことから始まります。周恩来を追悼する花輪が撤去されたことから四五天安門事件が発生し、鄧小平が再び失脚します。

 同年9月に毛沢東も死去(82歳没)し、新しく首相となった華国鋒江青など四人組を逮捕します。翌1977年7月、失脚していた鄧小平が復活し、8月の中国共産党は第11回大会で、四人組粉砕をもって文化大革命終結したと宣言しました。

 この辺の毛沢東周恩来江青など四人組、華国鋒、鄧小平と登場人物は多いのですが、味方がいつ敵になるかなど権力闘争が分かりづらく不可解です。

以後、鄧小平、李先念ら旧実権派の革命第一世代指導者たちが、政権を掌握するのですが、彼らは八大元老と呼ばれ、改革開放路線へと舵を切ることになります。

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不死鳥の如く甦る鄧小平

 鄧小平は、改革開放、一人っ子政策などで毛沢東時代の政策を転換し、現代の中国の路線を築きました。

 

結局、紅衛兵は、「正義」の名のもとに、本来同志であるはずの人々や伝統文化を破壊し、これにより共産主義社会の矛盾を、自ら暴いてしまったとも云えます。結果として、彼らが弾圧の対象とした走資派による、市場経済を取り入れた中国を創るきっかけを与えてしまったことになります。

 また、毛沢東はと云うと、アジア初の社会主義国である中国を設立し、以後その初代最高指導者として国民から崇拝され、死ぬまで権力を発揮し続けたということになりますが、後世の評価はどうでしょうか。

長くなりましたのでこのへんで。

 追記

 中国に関する最近のニュースで、中国政府は、今秋から習近平国家主席の政治理念を学ぶ授業を、必修とすることを決めたという報道がありました。小中学校などで必修教材として政治理念「新時代の中国の特色ある新社会主義思想」を正式導入するということです。

 チベット自治区、新疆ウィグル自治区漢化政策とともに、長期政権を目指す習主席の権威をさらに高める狙いがありそうです。

                       おわり

暑い夏の昆虫たち

 今までにないようなコロナの蔓延が続いていますが、首都圏だけでなく全国的に拡がりをみせています。わたしもワクチンを接種したのですが、若い人たちのワクチン接種率が上がらないことには、いっこうに収束が見えて来ません。

 

 そんな中でも暑い夏は、今年も容赦なくやって来ます。

この暑い、暑い夏を健気に頑張っている身近な小さな生きもの昆虫がいます。

夏と云えばセミで、今年は特に元気なようです。セミの鳴き声はうるさいほど聞こえてくるのですが、見つけることは至難の業です。庭にはセミの抜け殻や死んでいるセミは数多くいます。

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セミの抜け殻

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死んでいるセミ 何日生きて力つきたのでしょうか。

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死んでいるセミ 片方の羽が短い。


 やっと柿の木に止まって鳴いているセミを見つけました。

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圧倒的にアブラゼミが多いのですが、ツクツクボウシも時々鳴いています。

 

 メダカの水槽などに、水目当てに昆虫が頻繁にやって来ます。「コガネムシ」の類いです。いつも朝見ると、水に溺れているので助け出します。しばらく動きませんがいつの間にかいなくなっています。

コガネムシは、名前のイメージは良いのですが、葉を食べ、幼虫は植物の根を食べるので害虫の部類に入ります。人間の勝手な価値判断ですが、コガネムシにとっては生きるためで、これも自然の摂理です。

 

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水に溺れているコガネムシの仲間

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網ですくって助けます。

 

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緑のコガネムシも助けます。

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これもコガネムシの類いでしょうか。1cm足らず。

 

 キアゲハもやって来ます。なかなか止ってくれないのですが、運よく止まったところを撮りました。

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キアゲハ 今年はクロアゲハ、アオスジアゲハはみていません。

 ついでに、昆虫ではないのですが、暑い夏を待っていたかのようにニホントカゲは、ウロチョロしていますが、相変わらず逃げ足は速いです。

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ニホントカゲ しっぽが本当に長いです。

 また、不思議な花があります。名前をアプリ「ハナノナ」で調べましたがどうも違います。1か月ほど前にも咲いたのですが、最初紫の花が咲き、3日位後に白い花に変わるのです。1か月ほど前と同じです。

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名前不明の花 最初に紫の花です。

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3日位後に白い花に変わります。

そして3日程で間もなく花も落ちていきます。また咲くのでしょうか。

 

 最後に柴犬チロリの夏です。

極端に暑さに弱いチロリは、エアコン無しではおかしくなり、殆ど入れっ放しで、温湿度26℃、60%RHをキープしています。

やはり老化の影響で、温度に順応できないのでしょうか。今年の暑い夏を乗り越えて頑張れよチロリ!

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こんな厚い毛皮だから、暑いねチロリ。

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わたしのスリッパを枕にして眠るチロリ。

                                   おわり

日本の鍼灸の歴史

 以前「世界の鍼灸事情」について中国、韓国の歴史、制度などを書きましたが、日本の鍼灸事情について述べてみます。

 鍼灸は、今から二千年以上前に、古代の中国で誕生しましたが、日本への伝来は、飛鳥時代6世紀半ばに朝鮮半島から伝えられたと云われています。その後701年の『大宝律令』が制定され、律令制度の整備の中で、鍼博士、鍼生といった官職が鍼灸を扱う医療職として設けられました。

 日本で初の医学書は、平安時代808年に成立した『大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)です。平城天皇の命をうけ安倍真直、出雲広貞らにより、日本固有の医方を総集したものですが、原本を忠実に伝えるものは現存されておりません。偽本も多く、内容も疑問点が多いようです。もし現存していても、これには鍼灸に関する記述は無いと思われます。

 なぜならこの本の目的は、漢方医学鍼灸)の流入に伴い日本固有の医方が廃絶の危機にある事を憂慮した桓武天皇の遺命から編纂されたものであるからです。

 これに対して日本現存の最古の医学全書『医心方』(いしんほう)は、永観2年(984)に宮中医官を務めた鍼博士・丹波康頼により朝廷に献上されたものです。

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丹波康頼

 鍼博士である丹波康頼は、この時期の伝来医書を『医心方』という形で編纂し、現在までその内容が保存されています。

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国宝半井家本『医心包』(オリエント出版社提供)

 『医心方』は12世紀の写本が半井家の所有を経て1984年に国宝指定され、現在は東京国立博物館に保存されています。

本文はすべて漢文で書かれており、唐代の医書を参考に当時の医学全般の知識を網羅したものです。全30巻、医師の倫理・医学総論・各種疾患に対する療法・保健衛生・養生法・医療技術・医学思想・房中術などから構成されています。

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医心方第22巻。医心方の中でも唯一図を持つ巻

 奈良・平安時代は中国の鍼灸を受け入れ、学ぶことが中心であったのですが、同時に日本鍼灸の萌芽が見え始めた時期でもあったのです。

これには遣唐使の役割が大きかったと思います。現存する中国最古の医学書で、東洋医学ではバイブルである『黄帝内経』の書写が京都の仁和寺にあります。おそらく遣唐使として中国に渡った鍼灸に知識のある僧侶などが持ち帰ったのではないかと思われます。

 このような遣唐使による鍼灸技術の伝播は、単に技術面にとどまらず、医療制度としての鍼灸を日本に模倣させるものとなったと思われます。 

 そして、 鎌倉時代を経て、室町時代から安土桃山時代は、日本の独自性が育ち始め、江戸時代に特徴的に発展します。

豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592・1598年)の際に、朝鮮半島にあった朝鮮・中国の医学書が大量に日本に持ち込まれ、印刷技術の伝播で医学書も出版されるようになります。

 また、朝鮮出兵の直ぐ後に、李氏朝鮮許浚ホジュン)(1539年~1615年)は、『東医宝鑑』を著しています。朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布しました。日本では江戸時代初の官版医書として、徳川吉宗の命で享保9年(1724年)に日本版が刊行されています。

 わたしは、この『東医宝鑑』をソウルの韓国国立博物館で展示されているのを実際に見ております。3年前位ですが卒論の仏像の調査で行っており、偶然に見つけました。

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東医宝鑑』ソウルの韓国国立博物館の展示

 2009年にユネスコが主催する「世界記録遺産」に登録されたそうです。

 

 江戸期の臨床家で、その後の日本鍼灸に大きな影響を残したのが、杉山和一です。現在の津市の武家の家に生まれた和一は、幼少期に感染症で失明し、鍼灸で生計を立てようと江戸に行くのです。

江の島弁財天で断食し「管鍼術」を発明します。これは、鍼を管に挿入した状態で刺入する方法で、初心者でも患者に痛みを与えずに刺入でき、現在でも広く日本で用いられています。

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鍼管と鍼

 そして和一は、5代将軍綱吉の持病を改善させて重用され、下町一つ目に屋敷を賜り、将軍家御医師の地位と、盲人の最高位(検校)を賜ったのです。また、私費を投じて全国40箇所以上に「鍼治講習所」を開設し、視覚障害者が鍼灸を生業にする道を開きました。

 江戸期の日本の鍼灸は、「経穴」という、効果の決まったポイントが体表面に存在するという一般的な鍼灸論に対し、「変化の起こっている部位」こそ「経穴」という治療ポイントであるという視点を導入し、今日に続く鍼灸の科学的な解明に道を開いたのです。

 明治時代になると、近代西洋文化流入に伴い、明治政府が西洋医学の導入と共に漢方医学の排斥を進めたため、明治時代から大正時代にかけて鍼灸は衰退の道をたどります。

 大正期に入ると、日本の伝統的医学の復興が叫ばれ、鍼灸・漢方の医学的研究が帝大を中心とした国の研究機関で盛んに行われるようになります。

そして、昭和初期から鍼灸の技法自体に対する復興運動が起こりはじめ、「古典に還れ」と提唱した柳谷素霊などが経絡治療として体系化しました。それが今日でも受け継がれています。

戦後、はりきゆうの免許が国家資格となり、幾度かの法改正を経て、現在では3年以上養成機関で学ぶことが、「はり師」と「きゅう師」の国家試験受験要件となっています。

 最近では、公的な医学研究所・医科大学鍼灸大学や医療機関等で科学的な各種の実験、研究がされて少しづつ鍼灸医学の効果が証明されてきました。

いまや、鍼灸治療は、中国、韓国そして日本のみならず、欧米をはじめとする世界各国で盛んに行われています。最近の国際鍼灸学会は、世界中から50カ国以上参加するようです。

 まだまだ医療については科学的に解明されない未知の部分が多く、今後、現代の西洋医学東洋医学とを組合わせての「統合医療」が期待されるところです。

                              おわり

 

東の比叡山の上野「寛永寺」

 いつものことですが、東京国立博物館の展示会を見ての帰り、上野近辺のお寺を訪れます。今回は寛永寺の根本中堂です。

 根本中堂といえば比叡山延暦寺ですが、ここ上野の寛永寺は、東の比叡山と云われています。東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられ、天台宗の別格大本山です。
 寛永2年(1625)に、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立されました。徳川幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として、慈眼大師天海大僧正によって創建されたのです。

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慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正肖像画(本覚院蔵)

 後には、第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになり、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となったのです。江戸時代後期、寛永寺は、現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内でした。

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江戸城内并芝上野山内其他御成絵図」


 現在の東京国立博物館は、寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水は、根本中堂のあったところです。

しかし、幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいました。

 このように上野戦争で被災し、明治維新廃仏毀釈の中でも寛永寺に対する弾圧は厳しいものがあり、広大な寺地は現在の上野公園に転じました。

寺自体も明治12年になってようやく再建が認められたのです。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在しています。

 実は、今まで訪れ弊ブログでも書いていた上野大仏、上野東照宮、清水観音堂、五重塔などで、分散していますが全て寛永寺の伽藍です。

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現在の寛永寺の伽藍と東京国立博物館の地図

 現存する根本中堂は、明治12年、川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたもので東京国立博物館平成館の直ぐ北にあります。

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寛永寺南門

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根本中堂(本堂)

 根本中堂の御本尊は、薬師瑠璃光如来像で秘仏です。比叡山延暦寺の根本中堂の御本尊と同じく、伝教大師最澄が自ら彫られたと伝えられています。

また、脇侍の日光菩薩・月光両菩薩は、慈覚大師円仁作と伝えられています。

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比叡山延暦寺の「薬師瑠璃光如来像」

 そして、本堂の勅額「瑠璃殿」は由緒あるものです。

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根本中堂の勅額「瑠璃殿」

 瑠璃殿とは、東方浄瑠璃浄土の教主である薬師如来を御本尊とする伽藍をあらわしています。勅額「瑠璃殿」は、根本中堂が落慶した際に賜った東山天皇の御宸筆です。

上野戦争東京大空襲など幾多の戦争中に伝教大師作の本尊薬師如来とともに無事運び出されているのは奇跡です。

 

 最後に御朱印です。

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御朱印 瑠璃殿

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散華(さんげ)

 御朱印の中央に押された寶印は、サンスクリット語の「ベイ」です。薬師如来を一文字で表した梵字。(薬師如来の種子)

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梵字 「ベイ」

 また中央の墨書の文字は、瑠璃殿です。残念ながら緊急事態宣言の中、根本中堂は開放しておりませんでした。

 

参考資料:寛永寺HP、パンフレット、境内看板など

                          おわり