トーハク「聖徳太子と法隆寺」特別展

 東京に緊急事態宣言が発せられる中、今週火曜から開催されている特別展「聖徳太子法隆寺」に行って参りました。

東京国立博物館の前の通りにはいつも出店がずらっと並んでいるのですが、感染対策でご覧のとおり閑散としています。

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東京国立博物館前の大噴水と通り

 奈良博が終わって間もなく東京入りとは、聖徳太子も忙しそうですが、1400年遠忌記念ですから止むを得ないですね。期間は、7/13(火)~9/5(日)と短めです。

 100年に1度の遠忌記念の展覧会であり、聖徳太子に関する文化財をよくぞここまで集め企画したという感じでした。大半が法隆寺所蔵のものと東京国立博物館所有の「法隆寺献納宝物」ですが、法起寺中宮寺宮内庁からのものも一部ありました。

 本来は大勢の人が押し掛けると思われますが、感染対策で入場制限をやっているため入館者も少なめでゆっくり鑑賞することが出来ました。

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会場の平成館 聖徳太子1400年遠忌記念特別展

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90分で観覧のお願い。(じっくり見るととても90分では見切れません。)

 会場は、A~Eの5のコーナーに分かれて展示されていますが、最初のAは、「聖徳太子と仏法興隆」です。

聖徳太子を描いた最古の肖像画の「聖徳太子二王子像」がありました。江戸時代の模本ですが、お馴染みのお札の原画です。原本は皇室の御物となっています。

「和を以って貴しとなす」の聖徳太子ですが、この人物が本当に太子なのかどうかは、はっきりしないのです。それはそれとして、この絵を間近に見たのは初めてで、太子信仰のシンボルに相応しいと感じます。

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聖徳太子二王子像

 法隆寺から皇室へと献納された「法隆寺献納宝物」について少しふれておきます。これも神仏分離令からの廃仏毀釈が深く関わっています。これにより法隆寺も例外ではなく寺領を失い、伽藍や寺宝の維持も難しくなります。

仏教破壊が進む中、明治政府は、文化財保護を目的に、「古器旧物保存令」を出し、すべての寺宝の台帳を作成します。

 こうした中、明治11年(1878)に、法隆寺は、寺宝、三百余点を「法隆寺献納御物」として皇室に献納する決断をし、明治政府からの下賜金により堂塔の修復や寺院の維持が可能になったのです。よくぞ当時の関係者の方は、貴重な文化財を守って戴いたと思います。

 「献納御物」は、「帝室宝物」となり、新設された現東京国立博物館において保管されることになったのです。一部は宮内庁の「御物」となっています。

  今回「法隆寺献納宝物」は、Bのコーナーの「法隆寺の創建」で竜首水瓶や伎楽面など多数展示されておりました。国宝の竜首水瓶は「正倉院展」で拝見したことがありますが、いつ見ても胴の四頭のペガサスの線刻など見事です。

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竜首水瓶 飛鳥時代7世紀 銅製、鋳造・鍍金・鍍銀

 また、Bのコーナーに、百万塔が展示されていました。百万塔は、764年の藤原仲麻呂の乱後の動乱を鎮めるため称徳天皇によって発願された100万基の小塔です。

藤原仲麻呂が、孝謙上皇(後に称徳天皇)・道鏡に対抗した事実上のクーデターで、吉備真備によって悲惨な結末を迎える話です。日本最古の印刷物だという百万塔陀羅尼も展示されていました。

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百万塔

 Aに戻りますが、夾紵棺(きょうちょかん)断片の説明書きに目が留まりました。

何の変哲もない木の板と思いましたが、絹を45層の漆で塗り固めた高級な棺で、聖徳太子の棺の可能性があるというのです。その幅が記録に残る聖徳太子の棺台に一致するということが根拠のようです。

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夾紵棺の断片 大阪府柏原市の安福寺が所蔵

 Cの「聖徳太子と仏の姿」のコーナーでは、聖徳太子立像(二歳像)が2体展示されています。鎌倉時代製作の法隆寺法起寺所蔵のものです。

実はもう1体、Dの「法隆寺東院とその宝物」のコーナーにも展示されています。3体ともきりりとした表情で、2歳(それも数え)とは思えないほど大人びております。先の2体は、極端に切れ上がった目をしておりました。

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聖徳太子立像(二歳像)鎌倉時代 徳治2年 法隆寺

 また、この「聖徳太子と仏の姿」のコーナーには、「聖徳太子および侍者像」、「聖徳太子孝養像」など数多く聖徳太子像が展示されています。日本全国に千以上の聖徳太子の像や絵があると聞いていますが、太子信仰の人気の高さがうかがえます。

 そして、第2会場のDの「法隆寺東院とその宝物」、Eの「法隆寺金堂と五重塔」のコーナーへと続きます。

これだけボリュムある聖徳太子と関連のある文化財を幾つかのテーマに分けて、会場のスペースを考慮しながら展示するのは、学芸員の大変さがよく分かります。

 願わくば、最初のAのコーナーの入口にある半跏思惟像は、大阪四天王寺の救世観音像を模刻した平安時代のものでしたが、ここに中宮寺広隆寺の半跏思惟像を持ってくると最高でした。お寺の事情があるのでそうはいかないと思いますが。

 今回の展示は、それぞれのコーナーにハイライトを持ち、最終コーナーのE「法隆寺金堂と五重塔」でクライマックスに達するというような構成であると感じました。

そのEには、国宝『薬師如来坐像』、国宝『四天王立像の 広目天多聞天』2躯そして、6躯の菩薩立像などであり、最後に「伝橘夫人自念仏厨子」で締めくくった感じです。

 実はてっきり奈良の展示と同じ「玉虫厨子」が展示されると思っていましたが、東京は念持仏でした。

わたしの卒論は、半跏思惟像に関することでしたが、時代が近いのでこの「伝橘夫人自念仏厨子」も登場しました。思いがけず逢えて良かったと思います。

念持仏と云うと小さいというイメージでしたが、意外に大きく、三尊像と厨子とが別々に展示されておりました。三尊像がよく見えるようにとの配慮かと思います。

  この厨子は、光明皇后聖武天皇の皇后)の母である藤原三千代の念持仏を収めていると推測されています。

金銅の阿弥陀三尊像で中央が阿弥陀如来、左側が観音菩薩、右側が勢至菩薩像で白鳳時代末期の作品です。藤原三千代の阿弥陀信仰の熱心さがうかがえます。

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伝橘夫人自念仏厨子

 聖徳太子に関する説は、多数ありますが、このように聖徳太子は、なぜ多くの人達の心を掴んでいるのでしょうか。 

10人の人の話を同時に聞くなどの超人的な面と、神や仏でもない自分たちと同じ人間であるという人間性あふれる人間的な面の両面持つという太子のイメージがあると思います。

 十七条憲法の「和を以て貴しとなす」という平和の精神の太子が、すべての人間の願いを叶えてくれるという尊敬と崇拝の念からきているのではと思います。

 

 あまりにも見所がたくさんあり少ししか紹介出来ませんが、とにかく、100年に1度というこの展示会を、聖徳太子の理解のためにもぜひご覧いただきたいと思います。

その後10月に、伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄天台宗のすべて」が待っています。

その頃の日本のコロナの状況はどうなっているのでしょうか。

                             おわり

梅雨どきの生きものたち

 晴れの日が忘れるくらい、毎日、鬱陶しい雨が続いています。本日は久しぶりの天気のようです。各地で想定外の被害が多数出ていますが、地球温暖化の影響でしょうか。熱海の土石流災害は人災も重なった感じで本当に心が痛みます。亡くなられた方にはご冥福をお祈りいたします。

 さて、梅雨どきの生きものたちは元気にしているでしょうか。梅雨であろうが大雨であろうが関係ないのがメダカです。年中水の中です。でも日の光があまり感じなくて鬱陶しいと思っているかもしれません。

現在は、夏に備えて日陰に移し、4つの水槽に収まっています。

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                  4つの水槽

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楊貴妃

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黒メダカ

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白メダカ

 ごく最近ですが、奇怪な生きものを見ました。柴犬の朝の散歩で雨降りしきる中でした。歩いて程なく小学校の校庭の中をふと見ると、見慣れない動物がいます。はじめ猫か犬かと思ったのですがよく見ると違います。

 猫より大きく、柴犬より少し小さい奇怪な生きものです。顏がアリクイみたいに細く尖っていて全身こげ茶色です。明らかに犬やハクビシン、アライグマとは違います。しかもこんな住宅地に現われるなんて信じられません。

 とっさのことで雨もふりしきる中で写真は撮ることは出ませんでした。ハクビシンはたまに見ますがどうも違います。わたしと目があったのではっきりと覚えています。

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こんな感じの生きもの

 先日、札幌の住宅街でもヒグマが出たというニュースがありました。わたしの育った家からそう離れていない所ですが、そこは平坦な土地が続き山などどこにもありません。

 ヒグマはどこから来たのでしょうか。不思議なことがあちこちで起きるようです。

いずれにせよ、身勝手な人間に追われて可哀そうな生きものたちが、あちこちにいるということです。

 ニホントカゲも雨を避けて少しでも日当たりが良いと、チョロチョロと出てきます。先住民は逞しく生き延びています。

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ニホントカゲ

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尻尾が長い。

 昆虫たちも水を飲みに来るのでしょうか、水場に集まります。あまり見たこともないような綺麗な色の昆虫もいます。頭が無ければまるで人間が黄色の帽子をかぶっているようです。

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上に目があるようですが、下に頭があります。

水を飲みに来て溺れていた昆虫がいました。助けましたが直ぐに飛んでいきました。

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おぼれていた昆虫

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助けた昆虫

 植物のほうですが、アデニウム(砂漠のバラ)とヤブカンゾウはいつも梅雨時に咲き、哀れにも雨に打たれて散っていきます。でもくじけずまた何度でも咲きます。

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アデニウム(砂漠のバラ)

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ヤブカンゾウ


 今年は梅がなり梅干しにしましたが、今は大粒のブルーベリーが色づき始めています。

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ブルーベリー

 そして柴犬チロリですが、相変わらず元気です。でも蒸し暑さは大の苦手で、25℃、湿度60%RHを越えると危険水域でエアコンを入れます。

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ボーっと外を眺めるチロリ

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食慾は旺盛なチロリ

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何でもマクラにしちゃうチロリ

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変な表情のチロリ

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まともな表情のチロリ

 いろいろな表情を見せてくれる柴犬チロリ11歳メス千葉生まれです。

 

 これから梅雨明けで暑くなりますが、本格的な夏を待つ生きものたちの様子でした。

                             おわり

北海道の縄文遺跡群

 北海道・北東北の縄文遺跡群が、今月に世界文化遺産に登録される見通しとの報道がありました。

北海道出身の者として、以前から気になっていたのですが、世界文化遺産に値する縄文遺跡が北海道にあるとは思ってもいなかったからです。

 北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道6遺跡、青森県8遺跡、岩手県1遺跡、秋田県2遺跡の合計17遺跡で構成されています。また関連する遺跡(関連資産)が北海道と青森県に1遺跡ずつあります。

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北海道・北東北の縄文遺跡群 地図 北海道、青森県で殆ど占めています。

 北海道については、九州、本州と違い稲作の農耕社会の弥生時代が存在しなく、縄文時代と同じ生活を続けていたことは知っておりましたが、北海道の歴史を改めて振り返ってみます。

 北海道に人類が住みはじめたのは、今から約3万数千年前とされています。南北両方から人類が、渡ってきています。南からは、朝鮮半島や南の島々を渡って南から移動してきた人々です。

また、北からは、シベリアの大陸の方面から移動してきた人々です。彼ら二つのグループは、高度な石器づくりの技術をもちこみ北海道で旧石器時代を築きました。

 当時は、約3万数千年前ですから「氷河期」で、北海道はユーラシア大陸とつながっており、マンモスなどが生息していたと考えられています。人々は、打製石器を使い、狩猟により生活をしていた、いわゆる旧石器時代です。

今から約1万年前までは、このような時代が続き、北海道にも多くの旧石器時代の遺跡が各地にあります。紋別郡遠軽町の「白滝遺跡」などです。

 やがて氷河期は終わりが近づき、地球はだんだん温暖化が進み、人類の生活や文化を大きく変えていきます。

日本列島では、マンモスなどの大型動物は絶滅し、気候の変化で豊かな森や魚貝類が育ちやすい環境に変化し、陸と海の両方から食料が得られるようになる縄文時代が到来します。

 この時代の最大の特徴は、「土器」が発明され、調理や食料の貯蔵をし、生活が大きく安定したことです。北海道で最古の土器は、1万3千年前ころの帯広市にある「大正3遺跡」から出土されたものです。縄文時代草創期の特徴をもち、本州から渡ってきた人々がもたらしたと考えられています。

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「大正3遺跡」から出土した北海道最古の土器

縄文時代草創期の特徴である「爪形文」が見られます。

 

 南北に長い日本列島の歴史では、旧石器時代から縄文時代までは、北海道から沖縄までほぼ同じような文化だったといえます。

しかし、約2500年前の弥生時代からは、北海道の「北の文化」は本州などと大きく異なります。本州などは、以後古墳文化、飛鳥、白鳳、天平、平安文化などと時代は移ります。

 北海道は、縄文時代以降になると「続縄文文化」や「擦文(さつもん)文化」、「アイヌ文化」などと呼ばれ、縄文時代と同じ生活を続けており文化が違っていたからです。

しかし、生活の基本を「狩猟・漁労・採集」と変わりませんが、文化的には周辺の人々との交流から影響を受けた結果、独自の文化が育まれていったと云えます。

 

 ここで北海道・北東北の縄文遺跡群に戻って、北海道の遺跡を見て行きます。

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道内の各資産の位置図

 北海道といえば厳しい寒さですが、地図で分かる通り「キウス周堤墓群」を除いて、内浦湾沿いの北海道でも比較的温暖な地域です。

クリなどの堅果類や魚介類などの資源に恵まれた地域で、採集、漁労、狩猟を基盤にした定住生活が行われてきたと思われます。

 キウス周堤墓群のある地域もサケ・マスが遡上し捕獲できる河川の近くであり、後背地に落葉広葉樹の森が広がっている地域です。

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キウス周堤墓群 配石のある墓坑(キウス2号周堤墓)

 キウス周堤墓群は、約3200年前の縄文時代後期の墓で、地面を丸く掘り、掘った土を周囲に土手状に積み上げ、内側を墓地にしています。

周囲に堤があることから「周堤墓」と呼ばれています。9基あり、最大のものは外径83mもあります。

 また、北海道南西部の渡島半島東岸の垣ノ島(かきのしま)遺跡は、縄文時代早期から後期(約9,000年前~3,500年前)にかけての長期間にわたり、縄文人の生活の痕跡が残された遺跡です。

台地利用の変遷を示す数多くの竪穴住居跡や墓に加え、国内最大級規模の「盛り土遺構」も見つかっています。 

遺物では土器や石器の生活道具のほか,幼児の足形が付けられた「足形付土版」や「漆塗り注口土器」などこれまで20万点以上の遺物が出土しています。

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盛土遺構の遺物出土状況

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足形付土版

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漆塗り注口土器 この頃から既に漆は使われていたのですね。  

 他の北海道遺跡には、定住発展期前半の貝塚を伴う拠点集落の「北黄金貝塚」や定住発展期後半の祭祀場である大規模な盛土を伴う拠点集落の「大船遺跡」などがあります。

 

 そして、本州の大遺跡である「三内丸山遺跡」を見てみます。青森市に所在し、八甲田山系からのびる緩やかな丘陵の先端部、沖館川沿岸の標高約20mの海岸段丘上に立地します。水産資源豊富な内湾及び河口に位置し、後背地には落葉広葉樹の森が広がっています。

 大規模な集落には、竪穴建物、掘立柱建物、列状に並んだ土坑墓、埋設土器などが計画的に配置されています。

膨大な量の土器や石器のほか、魚骨や動物骨、堅果類が出土しており、通年において自然資源を巧みに利用していたことが分かります。

 

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三内丸山遺跡 遺跡全景

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土偶 

 出土した土偶の殆どが板のように扁平で十字型をしており、「板状土偶」と呼ばれています。

 

 ユネスコの諮問機関「イコモス」による登録勧告では、遺跡群が示す「農耕を伴わない定住社会と精神文化」が評価されたということです。

 推薦書では、1万年以上にわたる海道・北東北の縄文時代を定住の「開始・発展・成熟」の3段階に分け、その変遷過程を、各遺跡群の構成資産を通じて解説しています。

 一方、精神文化の面でも、各段階の遺跡や遺構の特徴から違いが顕著に表れています。定住開始期に位置づけられる垣ノ島遺跡は居住域と墓域が分離され、日常と非日常の区別が始まったことを示します。

 2千点以上の土偶などが見つかった三内丸山遺跡の盛土遺構は、祭祀が長時間継続していたことを示す痕跡です。

 

 世界遺産委員会は今月16日からオンライン形式で行われます。縄文遺跡群を含めた新規登録案件の審査は24~28日に行われる予定のようですから注目していこうと思います。各遺跡は、見学の準備を整えているようですから、1ヵ所でも訪問したいものです。

 縄文JOMON JAPAN北海道・北東北の縄文遺跡群ウェブサイトなどを参考にしています。

                              おわり

新宿の太宗寺

 今回の寺院巡りは大都会、新宿区の太宗寺(たいそうじ)です。太宗寺は、東京メトロ丸ノ内線新宿御苑前駅より直ぐ近くにあります。奈良、京都の名刹、古刹とは比ぶべくもありませんが、ビルの谷間にこんな空間があったのかと思わせます。

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太宗寺

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太宗寺近隣図

 太宗寺は、安土桃山時代の慶長元年(1596)頃に太宗という僧侶が建てた草庵「太宗庵」が前身です。

太宗は、寛永6年(1629)安房国勝山藩主の内藤正勝逝去の際に、葬儀をとりしきった縁で、寛文8年(1668)に天領の寄進を受け、太宗寺として開創したのです。

 内藤家は、以後歴代当主が葬られるようになり、現在も境内の隣に墓所があります。

宗派は、浄土宗で、山号:霞関山(かかんさん)、院号:本覚院(ほんがくいん)で、御本尊は、阿弥陀如来です。
 境内に入ると、ミニ博物館のようにぐるりと文化財を見ることができます。直ぐ右手に巨大な地蔵菩薩坐像が目に付きます。江戸時代の前期に、江戸の出入口六ヶ所に建立されたひとつです。

銅像で像高は267cm、正徳2年(1712)に「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納められていました。

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銅造地蔵菩薩坐像

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 閻魔堂には、閻魔像と奪衣婆像が安置されています。閻魔像は、木造彩色で総高550cmにも及ぶ閻魔大王像です。文化11年(1814)に造られましたが、数度の火災により補修を受け、当初の部分は頭部を残すだけとなっています。道理で頭部と躰部がアンバランスな印象はそのためでしょうか。

江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた像です。

 

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閻魔堂

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閻魔像

 奪衣婆像(だつえばぞう)は、閻魔堂の左手に安置されていますが、この像も木造です。総高240cmの大作で、明治3年(1870)の製作と伝えられます。

渦巻く頭髪、血走った大きな眼、剥き出しの肋骨と垂れ乳、血にまみれた口など凄まじい形相で鬼婆の風体です。

 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を諮るとされ、この像でも右手には亡者から剥ぎ取った衣が握られています。また、衣を剥ぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されました。

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奪衣婆像(だつえばぞう)

 扁額「閣王殿」は、中国清朝の官吏・秋氏が嘉永3年(1850)に奉納したものです。

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扁額

 尚、閻魔堂の開扉は、1/15,16と7/15,16の年に4日のみです。ただその日以外でも、扉にあるボタンを押すと照明がつき内部のお二人を格子越しに拝することが出来ます。

 

 本堂は、戦災で焼失、戦後再建された近代的な建物となっており、御本尊阿弥陀如来像が安置されています。阿弥陀如来像は開帳する予定はないということでした。

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本堂

 また、観無量寿経曼荼羅も本堂にあるようです。太宗寺に伝来する三幅の曼荼羅(浄土宗の三大経典による)のひとつです。

通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県當麻寺観無量寿経曼荼羅を同寸大に模写したものです。紙に描かれており、縦425cm、横408cmの掛軸となっています。 製作年代、作者については不明ですが、江戸時代初期の製作と推定されるということです。

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観無量寿経曼荼羅

他の二つの曼荼羅は、無量寿経曼荼羅阿弥陀経曼荼羅で掛軸となっており、大曼荼羅より新しいものと推定されています。

 

 本堂の隣の庫裏・客殿の庭に切支丹灯籠があります。内藤家墓所から出土された織部型灯篭です。新宿に隠れ切支丹とは意外ですが、全体の形状は十字架を、竿部の彫刻はマリア像を象徴し、マリア観音とも呼ばれています。

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マリア観音

 不動堂は、大戦の戦禍を免れた戦前の建物で、三日月不動像と布袋尊像を安置しています。

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不動堂

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  三日月不動像は、額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。銅製で像高は194cmで江戸時代の作です。また、布袋尊像は、新宿山ノ手七福神のひとつです。

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不動堂内部

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三日月不動像

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布袋尊

 このお堂も閻魔堂と同じく開扉は1,7月ですが、照明のボタンにより内部を拝することができます。

 

 

 不動堂の隣に「塩かけ地蔵」を拝見することが出来ます。願かけの返礼に塩をかける珍しい風習のある地蔵尊です。

造立年代や由来については、はっきりしていません。目黒大圓寺のとろけ地蔵も強烈な印象でしたが、ここも負けず劣らず強烈です。塩が固まって氷のように張り付いています。東京には他にも文京区の塩地蔵やしばられ地蔵尊などがありますが、江戸時代に花開いた庶民文化の主役は、このような地蔵尊だったのです。

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塩かけ地蔵


 本堂の横に墓地があり、内藤一族もここに葬られており、内藤家墓所が改葬された際に、鏡や煙管、かんざし、貨幣などが出土されています。

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内藤正勝の墓

以上出典は、パンフレットや境内の案内板から書き出しました。

 

 そしてこのお寺には、のんびりとくつろぐニャンコがあちこちにおり癒されます。

本堂への階段におりました。

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お墓の上でくつろぐニャンコ。

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不動堂の手すりの間にうつぶせで眠るニャンコ。

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気配を感じたのか顔を上げますが、目はつぶっています。

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そしてやっぱり眠いのです。

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 最後に御朱印です。お寺には、やはり来てみないと分からないことがあり、江戸時代の庶民文化の一端を拝見した気がしました。ありがとうございました。

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本尊の阿弥陀如来

                              おわり

再び花の名前

 散歩していると、いつも道端や花壇の花が咲いていると名前が気になります。雑草の類いも、ポツンと可憐な花の顔を見せており、花を見つけると「ハナノナ」のアプリで写真を保存します。

 

シロツメクサですが、三つ葉のクローバーでお馴染みですが、赤紫のムラサキツメクサもあります。

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ムラサキツメクサ 薬用としても多用されているそうです。

 ネジバナは、よく芝生の中に生えています。茎をまっすぐに伸ばして、らせん状にねじってピンクの花をつけます。この形状から名前がついたのでしょう。

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 コメツブウマゴヤシは、よく空き地に密集して生えている小さな花です。名は果実の形を米粒に見立て、肥料になることからついたものです。

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 花ではなく花穂ですが、エノコログサです。花穂が、犬の尾に似ていることから、犬っころ草が転じてエノコログサとされています。漢字でも「狗尾草」と表記されます。アプリの画像の別名のネコジャラシのほうが分かり易いです。

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 ツバナですが、小さいススキみたいです。別名チガヤと云います。

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 セイヨウオドリギソウは、かたまって咲いている黄色い花です。

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 ベゴニアは、花壇に赤、白、桃色とよく見かけますが、花がいつまでも長持ちします。 

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 ロベリアは、赤紫の小さな花が全体を覆うように咲いて綺麗です。

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 クリサンセマムは、マーガレットとそっくりな花ですが、花が小さいです。

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 麦わら帽子に似ているのがその名のとおりムギワラギクです。キクにしては早く咲きます。

 

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 キンシバイは、黄金色の花ですが、よく茂った濃い緑色の葉に映えます。漢字で書くと金糸梅です。なるほど梅の花に似ています。

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 タンポポかと思いましたが、イワニガナで、葉の形は卵形です。

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 ウサギギクと出ました。これもタンポポと区別がつきません。

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 カミツレは、前出のクリサンセマムと区別がつきませんが、似た花がたくさんあるものです。 

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 イエギクです。菊は秋に咲くものと思っていましたが、今頃咲くキクの種類も多いのですね。

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 シモツケは、よく見かけるピンクの地味な花です。

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 ヒヨドリバナ、カリフォルニアツリーポピーと出ましたが、一寸違うような気がします。

 

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 スイセンノウですが、ピンクや紫の色もあります。漢字では「酔仙翁」と東洋的で少し花とイメージが違います。

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 まだまだ、たくさん撮っていますので植物図鑑が出来そうですが、このへんで。

特に、雑草とおぼしきものにしぶとさと逞しさが感じられ、それでいて可憐で健気に咲いています。

 これは本当に便利なアプリで、名前が分かると何とでも調べることが出来ますから。

                             おわり   

「とろけ地蔵」の大圓寺

 JR目黒駅西口から急坂道の「行人坂」を下り始めて間もなく、左手に天台宗大圓寺大円寺 通称:大黒寺)があります。そこから坂を下り目黒川の太鼓橋を越して五百羅漢寺があり、もう少し先に目黒不動尊があります。

この行人坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であったようです。

寺伝では大円寺は、寛永元年(1624) 出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として創建したのが始まりと伝わります。

 1772年(明和9年)に発生した大火の火元となったのが大円寺で、江戸市中628町に延焼しました。振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つで「行人坂火事」と呼ばれ、江戸幕府からら再建の許可が得られませんでした。江戸時代後期になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興され、明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されています。

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大円寺山門

 山門から入ると直ぐ左側に石仏たちがたくさん並んでいます。「大円寺石仏群」です。『新編武蔵風土記稿』には大円寺境内の五百羅漢は、行人坂火事で亡くなった人々を供養するために建立されたと記されています。

この中にとろけ地蔵が鎮座しております。

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とろけ地蔵

 見て分かるとおり、原型を留めていない不思議な石仏です。江戸時代に品川沖で漁師の網にかかって引き上げられ、大火で焼かれて元の姿が分からなくなったという石仏です。

これは、江戸の後期より「とろけ地蔵」と呼ばれ、全ての悩みを溶かしてくれるという有難い石仏で人気だったと云われています。

 庶民に最も愛された仏が地蔵菩薩で、東京にも奇妙なお地蔵さんがあります。

新宿区太宗寺の「塩かけ地蔵」、文京区福聚院の「とうがらし地蔵」や文京区林泉寺の「しばられ地蔵」などで、それぞれ云い伝えがあるようですが、結局は人間の身代わりとして厄を引き受けるということでしょうか。

 この大円寺石仏群は、とろけ地蔵を含めて、釈迦三尊像を中心に、十大弟子像、十六羅漢、五百羅漢像が見守っています。

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大円寺石仏群

 ご本尊は、建久4年(1193)に造られた、京都の清凉寺式の「生身釈迦如来像」で釈迦堂に安置されています。

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釈迦堂

 釈迦堂は当分開かないと聞いていたのですが、甲子大祭の7/15にご御開帳との立札がありました。

清凉寺式の釈迦如来像は、横浜歴史博物館の特別展で真福寺清凉寺如来像を見たのですが、目黒区公式ホームページの大円寺の写真を見るとさすがにそっくりです。

頭髪を渦巻状にまとめ、通肩にまとった大衣の衣文線を同心円状に表し、切れ長い眉や眼など特徴ある表情です。

 京都清涼寺の釈迦如来像は、「三国伝来の釈迦像」と云われています。この京都清涼寺の釈迦如来像を模刻したもので、全国に100体近く造像されたようですが、ここもそのうちの一体と思われます。

釈迦如来立像は、高さ162cmの等身大の榧材による寄木造です。目黒区公式HPよりますが、両耳孔には水晶をはめ込み、同心円状に刻まれた衣のしわの峰に沿って截金線が入っているということで一度見たいものです。

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「生身釈迦如来像」目黒区公式HPより

 本堂は寛永元(1624)年に再建された当時のもので、寺伝によると芝白金あたりの寺の本堂を買い受けたとあり、開運招福大黒天と十一面観音像が安置されています。

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本堂

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本堂内部

 本堂の右側に薬師如来像があります。全ての人達の病の平癒を願って、ご真言は、「おん ころころ せんだり まとうぎそわか」と記されております。

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薬師如来

 この寺はまた、八百屋お七と吉三のゆかりの寺でもあります。阿弥陀堂には、阿弥陀三尊像とともにお七をモデルにした地蔵菩薩が安置されています。

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阿弥陀堂

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堂内 阿弥陀三尊像と地蔵菩薩 

 分かりづらいですが、上段の阿弥陀三尊像とそのすぐ左下に地蔵菩薩が安置されています。

中尊阿弥陀如来像は来迎印を結び、非常に珍しい半跏像です。地蔵菩薩像は、小像ながら截金の文様ほか精緻な装飾が施されていると云います。

 八百屋お七と吉三の物語は、数々の舞台や著作があります。本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和2年(1682)の火事の際、近くの円林寺に避難したときに、寺小姓の吉三との間に恋が生まれたのですが、やがて離れ離れになります。

お七は吉三に会いたさに放火するのですが、放火の大罪をおかし鈴ヶ森で火炙りに処されるのです。

吉三は、出家して西運を名乗り、明王院に身を寄せ境内に念仏堂を建立する事を決意します。そのための勧進とお七の菩提を弔うために、目黒不動浅草観音に1万日日参の悲願を立てて、27年後に明王院境内に念仏堂が建立されたのです。その後の明王院は明治初めごろ廃寺になり、仏像などは、隣の大円寺に移されたといいます。

本堂の右側には、八百屋お七と吉三の墓碑があります。

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八百屋お七と吉三(西運)の墓碑

 

 このような都会の小さなお寺にも、行人坂火事、とろけ地蔵、お七の物語など歴史の特異な出来事や、ご本尊の清涼寺式「生身釈迦如来」など貴重な仏像があるもので、東京の寺院を丹念に巡るのも一興であると感じました。

                           おわり

五百羅漢寺

 東京は緊急事態宣言が継続中ですが、トーハクは開館されました。特別展の「鳥獣戯画のすべて」も6/20まで延長され賑わっているようです。

 わたしも久しぶりに目黒区の寺院にて参拝してきました。JR目黒駅から近い大圓寺五百羅漢寺です。目黒区は、東京都の中でも寺院が多いようです。

 天恩山  五百羅漢寺は、浄土宗系単立の寺院で、創建は元禄8年(1695年)のことです。開基は江戸時代前期の松雲元慶(しょううんげんけい)という京都の僧で仏師でもあります。

五百羅漢像は、当初の本所時代に松雲元慶が五代将軍綱吉の生母桂昌院らの寄進をえて独力で彫り上げ完成させたもので、明治時代に本所から現在地に移転しました。

寺院と云っても都会の中ですので、境内が鉄筋コンクリートのビル内で少し趣が異なります。

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天恩山  五百羅漢寺

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五百羅漢寺入口


 本堂、阿弥陀堂、羅漢堂、聖法堂などが全てビル内に納められていますが、その中身は奈良にも京都にもない素晴らしいものです。

まず本堂の大雄殿ですが、本尊は釈迦如来像です。釈迦如来とその弟子である羅漢たちが一堂に会して説法する光景が再現されており、お経が流れています。

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大雄殿

 中央に本尊の丈六の釈迦如来像が坐り、両脇に立つのは摩訶葉尊者、阿難陀尊者です。その前に四体の菩薩像が安置されています。観世音菩薩、文殊菩薩普賢菩薩地蔵菩薩が並んでいます。

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                本堂内部

 

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          本尊 釈迦如来

 

 その他、釈迦如来を取り囲むように十大弟子十六羅漢、五百羅漢さんたちが安置されており200体くらいあるでしょうか、圧倒されます。また、この釈迦如来像は、珍しいことに手に一輪の花を持っています。これを「拈華微笑の釈迦牟尼仏」と云うそうです。

 

 そして、本堂に納めきれない146体の羅漢像を安置するのが回廊を兼ねたコの字型の羅漢堂です。

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羅漢堂

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羅漢堂内部

 羅漢像は、座高80~90cm前後のヒノキ材の寄木造で、各像の表情、ポーズなどはすべて異なり、彫刻としての価値だけではなく、「木造の羅漢像」が一堂に300体以上も残っていることが奇跡です。東京に江戸の文化財は殆ど残っていません。廃仏毀釈もあったであろうし、関東大震災東京大空襲などによって焼けてしまったからです。

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右・特大医尊者 左・普荘厳尊者

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慧作尊者

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金剛破魔尊者

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雷徳尊者


 羅漢堂の出口付近に異形の神獣が待ち構えています。「獏王像」です。これも松雲元慶の作ですが、異彩を放ってその姿に驚かされます。

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「獏王像」 松雲元慶禅師 作 

 もとは、大雄殿の須弥壇の後ろに「護法神」として安置されていたと云います。この神獣は、本堂で再現されています釈迦の説法会を密かに守護する存在だったのです。

獏は、人間の悪い夢を食べ、善い夢を与えてくれる動物であると云い伝えられていますが、この獏王は、人面牛身虎尾です。その奇怪な風貌は、額と腹の両側に各三個ずつ、計九個の眼が輝いています。
 喜多村信節が江戸時代後期の風俗習慣などについて書いた随筆『嬉遊笑覧』には「白沢は獏なり」とあります。白沢といえば、森羅万象に通じた聖獣、病魔除けの聖獣として崇められてきましたが、これは本堂に安置するのが良いと思います。 

 

 五百羅漢寺を創建するという大偉業を成し遂げた松雲元慶は、単独で十六羅漢像、五百羅漢像を開山後もひたすら彫り続け、元禄10年(1697)には彫り終わりました。そして釈迦十大弟子、十一面観音、延命地蔵、獏王像など膨大な量の仏像を彫り仏像造立にその生涯を捧げたのです。

 

 本堂の横に「碑のこみち」があって歌碑など興味深いものが並んでいます。

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大雄殿と再起地蔵尊 右奥に「碑のこみち」

 お鯉観音は、お鯉さんの華麗で波乱万丈な経歴と人徳から慕われてきました。

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お鯉観音

 お鯉さんは、美貌の名物芸者から、政治家桂太郎の愛妾になり総理官邸に住み、桂が生涯を閉じた後、出家して「妙照」と改め尼僧となったという異色の女性です。

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お鯉さん(安藤妙照)

 五百羅漢寺は、廃仏毀釈関東大震災などで大破し、昭和の初めには、住職もいない荒れ寺となっていたのですが、この様子を見て五百羅漢寺の再興を決意し住職となったのです。

お鯉さん(安藤妙照)は、五百羅漢寺の再興のために托鉢行脚に精進し再建、復興に努力したという物語があります。

 高浜虚子の句碑もありますが、俳句界の巨匠高浜虚子も安藤妙照と親交があり、しばしば五百羅漢寺に足を運んだということです。

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句碑 遠きゆかりと 伏し拝む 虚子 

 小説・随筆家平山盧江の歌碑もあります。

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歌碑 このあたり いつも二人で歩いたところ 思ひ出しては まはりみち 盧江

 他に、五百羅漢寺を創設した松雪元慶禅師の顕彰塔、徳川吉宗の御腰掛け石、子育て地蔵菩薩、天恩供養塔など数多くあり文化寺としても知られてきたようです。

 

 そして、驚いたことに五百羅漢寺が荒れ寺となる前のことですが、河口慧海五百羅漢寺の住職となっています。

河口慧海については、以前ブログに経典を求めたチベット探検を書いておりますが、ここに登場するとは思ってもいませんでした。

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河口慧海

 河口慧海は、明治21年(1888)に23歳のとき、郷里の堺市から苦学を決意して上京しました。定次郎(慧海の幼少名)は、五百羅漢寺の寄宿生となり哲学館(現東洋大学)に通学するのですが、明治23年に住職の海野希禅から得度(仏教における僧侶となるための出家の儀式)を受け、慧海仁広となります。

 そして、海野希禅が突然引退し慧海は25歳の若さで五百羅漢寺の住職となったのです。しかし、仏教経典に専念したいという慧海は、翌年には住職を辞し、研究に没頭します。

研究を続けるうち中国で翻訳された漢訳経典の限界に気づき、サンスクリット語の仏教原典に近いチベット語の経典を手に入れたいという一心からチベットを目指したのです。この後の慧海の『チベット旅行記』について興味ある方は幣ブログで。

河口慧海のチベット探検 - クマケア治療院日記 (hatenablog.com)

 

 このように、この五百羅漢寺は、松雪元慶禅師、お鯉さん、河口慧海と波乱にとんだドラマがある寺院なのです。

  また、世田谷区の世田谷山観音寺には、五百羅漢寺から流出した羅漢像9体が所蔵されているそうなので、何れ参拝に行こうかと思います。

 参考文献は、天恩山 五百羅漢寺発行の『らかんさんのことば』です。

最後に五百羅漢寺御朱印です。

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                             おわり